エッセイスト、タレントとして活動し、近年は、自身の介護体験、女性の生き方、ファッションについてなど、様々なテーマでトークショーや講演会を行っている、安藤和津(あんどう かづ)さんですが、そんな安藤さんの祖父は、あの元内閣総理大臣・犬養毅だといいます。

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年齢は?出身は?身長は?

安藤さんは、1948年3月6日生まれ、
東京都台東区の出身、

身長164センチ、

血液型はA型、

学歴は、
学習院初等科・女子中等科・女子高等科
⇒上智大学文学部独文科卒業

趣味は合唱、

特技は料理と英会話、

だそうです。

本名は?旧芸名は犬養和

ちなみに、安藤さんの本名は「安藤和子(あんどう かずこ)」で、旧姓は「荻野和子(おぎの かずこ)」、旧芸名は「犬養和(いぬかい かず)」なのですが、安藤さんの父方の祖父は、あの、元内閣総理大臣の犬養毅(いぬかい つよし)氏です。


犬養毅氏

犬養毅氏は、1855年、備中国賀陽郡庭瀬村字川入(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼(後に犬養)源左衛門の次男として誕生すると、1876年、慶應義塾大学に入学し、大学在学中から「郵便報知新聞」の記者として活動。

翌年の1877年には、記者として西南戦争に従軍すると、1880年には、慶應義塾大学を中退して記者に専念し、同年、豊川良平(とよかわ りょうへい)らと「東海社」を設立。「東海経済新報」を創刊、記者として活動したそうです。

祖父は元内閣総理大臣の犬養毅

その後、犬養氏は、いつ頃かは不明ですが、統計院(総務省)に入ると、この時の関係により、以後30余年に渡って、大隈重信(おおくましげのぶ)の陣営に属することになるのですが、1881年、「明治十四年の政変」による大隈重信の失脚により、一緒に統計院を辞職。

(※「明治十四年の政変」とは、伊藤博文が「開拓使官有物払下げ事件」というスキャンダルを利用してライバルだった大隈重信を政界から追放した政治クーデターのことで、これにより、伊藤博文は国会開設や憲法制定など新しい日本を作り上げました)

しかし、1882年には、大隈重信率いる「立憲改進党」結成に参加すると、1890年には、第1回総選挙で、衆議院議員に当選。以来、連続18回42年間に渡って(死に至るまで)連続当選。

その後、「立憲国民党」(後に革新倶楽部)の党首となり普選運動・護憲運動に指導的役割を果たすと、第1次大隈内閣文相(ぶんしょう⇒文部大臣)に就任し、明治から大正に移り変わる時代において、立憲政治を貫く護憲運動で活躍。

「憲政の神様」として、大正デモクラシー(民主主義思想の運動)を盛り上げ、1923年には、第2次山本内閣逓相(ていしょう⇒通信大臣)を務め、普通選挙法を確立すると、1929年には、「立憲政友会」総裁となり、1931年12月には、内閣総理大臣となりました。

五・一五事件で暗殺された犬養毅の最期の言葉は「話せば分かる」だった

ただ、犬養氏は、内閣総理大臣として、アメリカ株価暴落によって起こった「満州事変」の収拾、世界恐慌による不況対策を積極的に推し進めている中、首相になってわずか半年後の1932年5月15日、

意見が大きく食い違っていた軍部(海軍青年将校ら)に首相官邸に押し入られて銃を突きつけられ、

話せば分かる

と言って、彼らを応接室に案内し、今後の政治のあり方を話し合いで解決しようとしたそうですが、後から押し入ってきた将校らによって、腹部と頭部を撃たれてしまいます。

それでも、犬養氏は、直後、かけつけた女中に、

今の若い者(銃撃後逃走した将校)をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせるから

と、言ったそうですが、その後、容態が急変し、息を引き取ったのだそうです。(五・一五事件)

(そして、犬養氏の死後、日本は軍国主義へと突き進みます)

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家系図

家系図は以下の通りとなります。

「安藤和津の生い立ちは?幼少期はお姫様の様に育てられていた!」に続く

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