1973年、24歳の時、劇団四季の「イエス・キリスト=スーパースター」(後の「ジーザス・クライスト=スーパースター」)のヘロデ役で舞台デビューして以来、70歳を回った現在も、現役で俳優活動を続けている、市村正親(いちむら まさちか)さん。今回は、そんな市村さんのルーツをご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?

市村さんは、1949年1月28日生まれ
埼玉県川越市のご出身、

身長170センチ、
体重60キロ、

血液型はA型、

学歴は、
川越市立川越小学校
⇒川越市立初雁中学校
⇒埼玉県川越商業高等学校(現・川越高校)
⇒舞台芸術学院卒業

趣味は、筋トレ、

また、特技は、模写だそうですが、舞台「炎の人」で主人公のゴッホを演じた際には、その役作りのため、実際にゴッホの絵「ひまわり」などを何点か模写したそうで、

市村さんは、

模写って大事なんです。役者もいい芝居を見て、まねていくうちに自分のものになっていく。絵も同じ。最初は息子の顔を描き、次はゴッホの「ひまわり」をまねて描いてみた。それをプリントした記念のTシャツも作ってグッズになっちゃったけど。

と、語っています。

本名は?先祖は真田幸村の父・真田昌幸と戦った武士

「市村正親」は本名なのですが、市村さんの先祖は市村与左衛門という人物の分家だそうで、

この人物、戦国時代、あの真田幸村の父・真田昌幸とも戦っていたそうで、古文書には、「真田安房守昌幸を攻むるの時進撃して功をなす」と、書き残されているそうです。

先祖は松井松平家に仕える武士だった

そんな市村家は、松井松平家に仕える武士だったそうですが、江戸後期の天保6年、浜田藩の3代目藩主・松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)の時代、城下の御用商人が朝鮮の鬱陵島(うるるんとう)を拠点として、東南アジアの国々と密貿易を行っていたのを、間宮林蔵により告発され、

藩主である康任は、黙認していたとして、老中を罷免されて、蟄居(ちっきょ)を命じられ(竹島事件)、翌年の天保7年(1836年)には、浜田藩主になったばかりの4代目藩主・松平周防主康爵(まつだいらすおうのかみやすたか)も、1000キロも離れた福島・棚倉(たなぐら)へ、懲罰的に国替えを命じられてしまったそうです。

ちなみに、福島・棚倉は、この時、「天保の大飢饉」の真っ只中だったそうで、

壁土に使用する藁(わら)までふかして食べた

との記載が残されているほど、暮らしはとても厳しかったようです。

(棚倉町には、現在も松井松平家の家臣の墓があり(ほとんどが無縁仏)、そこには、市村さんの高祖父(4代前)にあたる市村林太郎さんのお墓もあるそうです)

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廃藩置県でやむなく武士から農家にへ転身

ただ、それから30年後には、棚倉に近い「水戸藩」で、幕府に反感を抱いた水戸藩士たちによる暴動が起こった際(「天狗党の乱」)、「棚倉藩」の松井松平家がその討伐を命じられ、鎮圧に成功したそうで、

松井松平家は、その功績が認められ、慶応2年には、江戸を守る重要な場所である川越市へと国替え(栄転)を命じられるのですが・・・

その翌年の慶応3年(1867年)には、廃藩置県で川越藩が廃止となり、武士という身分がなくなったことから、市村さんの曽祖父(ひいおじいさん)である市村安衛さんは、やむなく農家に転身したのだそうです。

(ちなみに、明治17年(1884年)には、埼玉県秩父の農民たちが、政府に対する不満から武装蜂起し(「秩父事件」)、秩父から川越へ迫ろうとしたそうで、その鎮圧のため、元武士だった士族が集められたそうですが、その中に安衛さんもいたそうで、安衛さんは、農民たちの鎮圧に当たるなど、この時も活躍したのだそうです。)

「市村正親の父親はエリート軍人だった!」に続く

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