スタントマンを使わず、自ら演じるアクションスターのさきがけ的存在として、海外のスターからも絶賛されている、千葉真一(ちば しんいち)さん。今回は、そんな千葉さんの、生い立ち、学生時代をご紹介します。

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年齢は?出身は?本名は?

千葉さんは、1939年1月22日生まれ、
福岡県福岡市博多区雑餉隈のご出身、

身長176センチ、

血液型はO型、

学歴は、
町立貞元小学校入学
⇒千葉県立君津中学校
⇒千葉県立木更津第一高等学校
⇒日本体育大学中退

趣味は、
水彩画、日記をつけること、

特技は、
器械体操、極真空手(四段)、少林寺拳法(弐段)、スキー、乗馬、

本名は「前田 禎穂 (まえだ さだほ)」で、愛称は「千葉ちゃん」「Sonny Chiba (サニー ちば)」(海外での愛称)。

(Sonny (サニー)は、男性の名前に使われるほか、口語で、「兄ちゃん」「坊や」という意味があるそうで、愛称の「千葉ちゃん」を欧米風に訳したのだそうです。)

ちなみに、映画監督としては、「和千永 倫道(わちなが りんどう)」と名乗っておられます。(母親の旧姓・「和智永」と「千葉」を合わせ、「人の道」を由来としているそうです。)


千葉真一 改め 和千永倫道

弟は矢吹二朗

千葉さんの弟さんは、矢吹二朗(千葉治郎)さんというそうで、現在、会社員をされているそうです。

矢吹さんは、もともとは俳優だったそうで、1969年にテレビドラマ「ブラックチェンバー」で俳優デビューすると、1970年には、千葉さんが主宰する「ジャパンアクションクラブ」に入られ、「仮面ライダー」などの特撮ドラマやアクションドラマに出演。


「仮面ライダー」より。

その後、テレビドラマや映画に出演されましたが、1982年、俳優業を引退されています。

矢吹さんは、その後、アパレル関係の会社経営を経て、千葉県森林整備協会の県有林保護監視員になられると、2008年には特定非営利活動法人「森林デザイン研究所」を設立。

現在は、東京ドイツ村で、「ジージの森」を運営されているそうです。

千葉さんは、かつて、まだ中学生だった矢吹さんを東京に呼び寄せられ、育ち盛りの矢吹さんにご飯をたくさん食べさせるため、自身は粗食で我慢していたというエピソードがありました。


「激突!合気道」より、千葉さんと矢吹さん。

生い立ち

さて、千葉さんは、福岡県の大刀洗町という所にあった陸軍飛行戦隊に所属する軍人でテストパイロットだったお父さんと、熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていたお母さんとの間に、5人兄弟(2男3女)の長男として誕生すると、

お父さんやお手伝いさんから、「坊や」と呼ばれ、かわいがられて育ったそうで、幼い頃には、軍のジープに乗ったり、お父さんの飛行機に乗せてもらったこともあったそうです。

一方、テストパイロットだったお父さんは、初めて建造された空母への初着艦を成功させるなど、危険な重責業務に携わっていたため、そのストレスでか、お給料の半分が飲み代と消えて、家計は苦しく、

千葉さんが4歳の時には、お父さんが千葉県木更津市へ異動となり、千葉さん一家は千葉県君津市へ転居されているのですが、その後、終戦となって軍が解体され、お父さんは漁業組合の役員へ転職するも、家計は相変わらず苦しかったそうで、千葉さんは、小学生の頃から、新聞配達や牛乳配達をして家計を支えられていたそうです。

それでも、千葉さんは、後に、

貧乏だったものの大自然に囲まれていたため、米以外は不自由せずにいろいろな食物を食べることができ、自分の土台となった

と、語っておられました。

体育教師・松本先生との出会い

そんな中、ちびっ子ながらも、負けず嫌いでスポーツ万能な少年に成長した千葉さんは、中学に入学すると、そこで、体育教師の松本先生と出会います。

松本先生は、千葉さんのずば抜けた運動神経を見抜いたのか、千葉さんに目をかけてくれたそうで、千葉さんを、陸上競技、バレーボール、野球(投手かつ4番打者)など、様々な競技の大会に出場させると、

当時、ヘルシンキオリンピックが開催されて、日本勢が体操競技でメダルを獲得し、体操競技が一躍ブームとなっていたことから、

体操部を創るから部員になれ

と、千葉さんを勧誘。

こうして、千葉さんは、松本先生が設立した体操部に入部し、他の運動部と掛け持ちしながら、体操の練習を始めたのでした。

オリンピックを目指す

当初は、松本先生に勧められて始めた体操競技でしたが、やがて、千葉さん自身も、

オリンピックで日の丸を掲げたい

という夢を抱くようになり、そのことを松本先生に相談すると、千葉県立木更津第一高等学校へ行くことを勧められます。

ただ、木更津第一高校は進学校だったため、千葉さんは躊躇されたそうですが、松本先生が練習後に勉強を見てれる先生を手配するなど全面的に協力してくれ、そのおかげで、見事合格。

高校に入学された千葉さんは、体操競技に専念すると、1年生で「全国大会上位入賞」、3年生で「全国大会優勝」と、めきめき体操の才能を開花されたのでした。

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日本体育大学体育学部体育学科へ進学

そんな千葉さんは、高校卒業後は、日本体育大学体育学部体育学科への進学を希望していたのですが、家計は相変わらず苦しく、大学には行かせてもらえないだろうと、半ば諦めていたのですが、周囲の後押しもあり、

働いて半分出すから、大学に行かしてくれ

と、両親に頼んでみると、

両親は大学進学を了承してくれたそうで、千葉さんは、1957年、晴れて、日本体育大学体育学部体育学科へ進学されたのでした。

「千葉真一の若い頃はケガで五輪断念も東映に合格し高倉健と出会う!」に続く

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