1983年、NHK連続テレビ小説「おしん」でブレイクすると、1990年には、「渡る世間は鬼ばかり」シリーズで、演技派女優としての地位を確立し、以降、嫁をいびる姑の役など、意地悪な役を数多く演じている、泉ピン子(いずみ ぴんこ)さん。今回は、そんな泉さんのルーツである、祖父母と両親についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?

泉さんは、1947年9月11日生まれ、
東京都中央区銀座のご出身、

身長153センチ、
体重65キロ、

血液型はB型、

学歴は、
品川区立日野第二小学校
⇒品川区立日野中学校
⇒日本音楽学院付属高校中退

趣味は、
麻雀、パチンコ、競馬、プロ野球観戦、だそうです。

本名は?旧芸名は?

泉さんの本名は「江口小夜(えぐち さよ)」(結婚後は武本(たけもと))です。

また、芸名は、「三門 マリ子(みかど マリこ)」「泉 小百合(いずみ さゆり)」 を経て、現在の「泉ピン子」にされているのですが、

浪曲師だったお父さん・広沢龍造さんが、

「泉」は、泉姓の芸人に売れた人がいないというジンクスへの挑戦
「ピン子」は、ピンキリのピンで、カタカナの方がモダンで年寄り子供にも親しまれやすい

と名付けられたのだそうです。

ちなみに、師匠の牧伸二さんは、旅興行先で麻雀をやっている時に、

顔がまんまるでイーピンにそっくりだから

と、自分が名付けたとおっしゃっています。

祖父

さて、泉さんのお話の前に、今では想像できない時代背景のため、まずは、泉さんのご両親のお話から。

泉さんの父方のひいおじいさん・江口栄助さんは漁師で、古くからイワシの有数の漁場として知られた千葉県旭市飯岡に移り住まれると、そこで、江口熊次郎さん(泉さんのおじいさん)が誕生。

(飯岡は、イワシを干した干鰯(ほしか)と呼ばれる田畑の肥料に大きな需要があり、当時、一攫千金を夢見て多くの漁師が集まったそうで、栄助さんもその中の一人だったのでは、と言われています)

成長した熊次郎さんは、東京に移り住み、浅草のうなぎ屋「重箱」で修行されたそうで、その後、さくさん(泉さんのおばあさん)と結婚し、東京・銀座の裏通りでうなぎや「ひさご」を開業されたそうです。

父親

その後、江口鉱三郎さん(泉さんのお父さん)が東京・銀座で誕生するのですが、鉱三郎さんのいとこ・長野勝さんは、

銀座の番長みたいだったから、プロボクサーを目指してジムに通っていた。グレてやんちゃもやんちゃでしたよ

と、明かされており、

そんな息子を心配してか、熊次郎さんは、鉱三郎さんが15歳の時、知り合いのつてを頼り、浪曲師で2代目・広沢虎造さんに弟子入りさせたそうで、鉱三郎さんは、広沢さんのもと、浪曲の修行を積むと、数年後には、「広沢竜造」を襲名されたそうです。

しかし、1943年に、鉱三郎さんのもとに召集令状が届くと、出征しインパール作戦に従軍。

そこではマラリアにかかったそうですが、ちょうど運良く撤退命令が下ったことから、一命を取り留め、1946年に復員されると、寄席(よせ)に復帰。

その後、鉱三郎さんが出演する寄席「喜扇亭」に出入りしていた金井喜美代さん(泉さんのお母さん)と出会い、交際に発展したそうで、1947年、お二人は結婚されたのだそうです。

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母親

ちなみに、泉さんの5代前の母方の先祖・金井嘉四郎さんは、群馬県渋川市で多くの領地を所有していたそうですが、その孫の善三さんが勘当されて村を出て、東京の銀座に移り住まれたそうで、そこで誕生した善三さんの娘の喜美代さんは、小学校を卒業後、「池田美容院」へ就職。

その後、喜美代さんは24歳になると、人形町の長屋の路地裏に一室を借りて独立。ファンだったのか、鉱三郎さんが出演する寄席「喜扇亭」に出入りするようになっていたそうで、鉱三郎さんと出会われたのでした。

「泉ピン子は中学生のとき「三門マリ子」で歌手デビューしていた!」に続く

赤ちゃんの頃の泉さんとお母さんの喜美代さん。

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