1960年代後半、爆発的な人気を誇った、「ザ・タイガース」。セカンドシングル「シーサイド・バウンド」で大ブレイクすると一躍トップスターとなり、「君だけに愛を」「銀河のロマンス/花の首飾り」「シー・シー・シー」など、数多くのヒット曲を連発し、1971年に解散しています。


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「ファニーズ」結成

1965年、岸部さん、加橋さん、森さん、瞳さんの4人は、
地元、京都市で「サリーとプレイボーイズ」を結成し、
活動されていたのですが、

ある日、4人が、行きつけのダンスホール、
「田園」に立ち寄った際、

出演していた「ザ・サンダース」の、
ヴォーカル兼サポートメンバーである、
沢田研二さんに目が止まり、
岸部さんが、リード・ヴォーカルとしてスカウト。

翌年の1966年の元日、沢田さんは、
「サリーとプレイボーイズ」に正式に加入され、

同時に、グループ名を、
「ファニーズ」へと改名されたのでした。

関西で人気

ほどなくして、「ファニーズ」は、
大阪 難波にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の、
専属オーディションを受け、見事合格すると、

次第にステージで人気を博し、
半年もたたないうちに、
「ナンバ一番」の人気投票1位に。

人気を聞きつけた複数の芸能関係者から、
東京へ来るように誘いを受けたのですが、
いずれも実現には至りませんでした。

そんな中、「ナンバ一番」で共演した、
「ブルージーンズ」内田裕也さんに、
声をかけられたそうです。

しかし、他のスカウトマン同様、
その後は、具体的な話が進まなかったため、

業を煮やした、当時のリーダー瞳さんが、
約3ヶ月後、単身上京して、内田さんに面会。

すると、見事、内田さんから、
東京へ呼んでもらう約束を取り付け、
10月、「ブルージーンズ」の所属事務所と契約が成立。

11月には、「ファニーズ」は、
関西での活動を終え、上京したのでした。

ザ・タイガース

上京後は、内田さんが売り込んでくれたことから、
音楽番組「ザ・ヒットパレード」に出演が決まると、

大阪から来たということで、
プロ野球の阪神タイガースにちなみ、
「ザ・タイガース」というバンド名が与えられ、

同時に、リーダーも瞳さんから、
岸部さんに変更となったのでした。

メンバーは?

それでは、ここで、「ザ・タイガース」の、
メンバーをご紹介しましょう。

 ジュリーこと、沢田研二さん
(ボーカル、タンバリン)

 サリーこと、岸部修三(現 岸部一徳)さん
(ベース、コーラス)

 トッポこと、加橋かつみさん
(リードギター、コーラス、ボーカル)

 タローこと、森本太郎さん
(リズムギター)

 ピーこと、瞳みのるさん
(ドラムス)

 シローこと、岸部四郎さん
(岸部一徳さんの弟で、加橋さん脱退後に加入)

の5名(6名)です♪

「僕のマリー」でシングルデビュー

そして、同月の11月、「ザ・タイガース」は、
当時のアメリカの人気アイドル「ポールリビアとレイダース」の、
「KICKS(英語版)」を演奏し、テレビデビュー。

このときは、わずか、
30秒の出演だったそうですが、

翌年の1967年2月には、
シングル「僕のマリー」をリリース。

「僕のマリー」

実に、「ファニーズ」結成(改名)から、
たった1年で、シングルデビューを果たされたのでした。

「内田裕也とタイガース」

また、テレビ出演と並行して、
ジャズ喫茶でも演奏されており、

「内田裕也とタイガース」として、
内田裕也さんと組んで、地道な活動を続けておられます。

実は、テレビ出演時は、
事務所が、「ザ・タイガース」を、
アイドルとして売り出したかったため、

今までとは違う楽曲に、
メンバーは失望されていたのですが、

ジャズ喫茶での活動では、
内田さんがマネージメントされ、

「ファニーズ」時代のような曲を、
演奏することができたそうなので、
こちらの方が、メンバーにとっては、
満足のいく活動だったのかもしれませんね。

大ブレイク

とはいえ、テレビの影響力は凄まじく、
主に、低年齢層に人気が浸透したお陰で、

同年の5月にリリースした、
セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」は、
レコード売上40万枚を超える大ヒットを記録。

「シーサイド・バウンド」

そして、翌年の1968年にリリースした、

「君だけに愛を」
「銀河のロマンス/花の首飾り」
「シー・シー・シー」

が立て続けに大ヒットを連発し、
「ザ・タイガース」は、
一躍、トップスターとなられたのでした。

加橋かつみの脱退

しかし、そんな飛ぶ鳥を落とす勢いだった、
「ザ・タイガース」の活動にも徐々に陰りが。

自身のアイドルとしての在り方、
ひいては、グループサウンズの在り方に、
疑問を抱き始めた加橋さんが、
脱退を申し出たのです。

事務所は、沢田さんと人気を二分する、
加橋さんを失うことを恐れ、

加橋さんの意向を反映した、
アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」
の制作を開始するのですが、

「ヒューマン・ルネッサンス」

皮肉にも、加橋さんには、
事務所に操られている感が増したようで、
脱退の決意に拍車をかけてしまいます。

しかも、1969年、「ザ・タイガース」は、
アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」から選出した、

「青い鳥」
「朝に別れのほほえみを」
「帆のない小舟」
「割れた地球」

の4曲を演奏するのですが、
ヒッピー色の強い、これらの楽曲は、
ファンには受け入れられなかったのでした。

解散理由は?

そんな中、同年、加橋さんは、
レッスン中、スタジオを離れて戻らず、
「失踪」と大騒ぎになります。

そして、「ザ・タイガース」は、
一旦、活動を休止し、加橋さんは脱退。

加橋さんの後任に、岸部一徳さんの弟、
岸部四郎さんが決定し、

「ザ・タイガース」は、
第二のスタートを切ったのでした。

(加橋さんのこの失踪劇は、後に、
事務所のシナリオだったことが発覚し、
事務所は謝罪会見を開いています)

しかし、1969年夏頃には、
グループサウンズのブームは終焉の兆しを見せはじめ、

1971年1月、「ザ・タイガース」は、
日本武道館での「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」
を最後に解散したのでした。

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再結成

それから、42年後の2013年1月、
沢田さんが、自身のライブで、
「オリジナル・メンバーでのザ・タイガース復活」
を予告されます。

すると、同年12月、
これまでの再集結では姿を見せなかった瞳さんや、
脱退した加橋さんも加わったオリジナルメンバーで、

1969年以来、44年ぶりとなる
復活ライブが日本武道館で行われ、

最終日の東京ドーム公演には、
岸部四郎さんが、病を押してゲスト出演。

結成以来、初めてメンバー6人が、
全員揃ったのでした。

さて、いかがでしたでしょうか?

メンバーそれぞれ、
いろいろな事情があったとは思いますが、

時を経て、懐かしい曲を、
また、みんなで演奏できるなんて、
本当に素晴らしいことですね。

これからも、お体には十分に気をつけて、
渋いライブを続けてほしいですね。

応援しています!!

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