1987年、関西で大ブレイクされた、お笑いコンビ「ダウンタウン」こと、浜田雅功(はまだ まさとし)さんと松本人志(まつもと ひとし)さん。上京後もシュールなコントで人気を博し、一躍、お笑い界の頂点に立たれました。


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コンビ結成

1982年、高校を卒業した後、
競艇選手の試験を受けるも、
不合格となった浜田雅功さんは、

その年に吉本興業が開校した、
新人タレント養成所「吉本総合芸能学院(NSC)」
の第1期生募集ポスターを見つけると、

就職先が決まっていた、同級生の松本人志さんを誘い、
同年4月、「NSC第1期生」として入学。

すると、お二人は、すぐに漫才で頭角を表し、
デビュー2ヶ月で「素人名人会」にテレビ初出演。

そのうえ、同番組で「名人賞」を受賞するという、
快挙を遂げられます。

1982年6月6日放送の「素人名人会」より。
当時18歳の松本さんと浜田さん。

さらに、その1ヶ月後には、
「第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」にて、
福笑い大賞を受賞。

この賞を受賞されたことがきっかけとなり、
お二人は、NSC在学生では、異例のスピードで、
「なんば花月」舞台に5日間特別出演。

そして、同年8月には、
お昼の番組「笑ってる場合ですよ」の、
素人・アマチュア芸人の勝ち抜きコーナー、
「お笑い君こそスターだ!」に、

「まさし・ひとし」で出場され、5週勝ち抜き、
グランドチャンピオンの座を獲得されたのでした。

「お笑い君こそスターだ!」より。

漫才からコントへ転換

しかし、翌年の1983年には、同期で1期生の、
「トミーズ」「ハイヒール」「銀次・政二」などは、

新人ながら、レギュラー番組や、
関西若手漫才賞レースで活躍していたにもかかわらず、

浜田さんと松本さんは、
花月の劇場回りを送る日々。

同年、関西の若手漫才賞レース
「第13回NHK上方漫才コンテスト」や、

「第4回ABC漫才・落語新人コンクール」
(現在のABCお笑いグランプリ)に、
出場するも落選の連続だったそうです。

そんなお二人は、漫才中心の活動から、
コント中心の活動へと転換され、

当時、梅田にあった、
阪急ファイブ8階「オレンジルーム」において、

「ハイヒール」「銀次・政二」とともに、
全3回のコントライブ「ごんたくれ」の、
第1回公演に出演。

コンビ名も、
「松本・浜田」「ひとし・まさし」
「ライト兄弟」「ダウンタウン」
と改名されたのでした。

心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール

そんな時、養成所時代から、
2人のマネージャー的存在だった、
大崎洋さん(現在は吉本興業代表取締役社長)が、

才能はあるものの、注目度が低かった、
「ダウンタウン」のために、
活躍の場を作ろうと、一念発起。

1984年から、劇場「南海ホール」で、
笑いのターゲットを若年層に絞った、
「心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール」が、

「ダウンタウン」をはじめとする、若手芸人たちの為に、
毎週末、開催されることとなったのでした。

転機

そんな「ダウンタウン」に、
1985年5月、転機が訪れます。

というのも、「ダウンタウン」は、
うめだ花月上席の舞台に出演していたのですが、

舞台袖で、出番待ちをされていた、
コンビ「紳助・竜介」島田紳助さんが、
偶然、「ダウンタウン」の漫才を見られ、
自分たちの限界を感じたそうで、

当日、所属事務所である吉本興業に出向いて、
コンビ解散を宣言。

「紳助・竜介」

そして、島田さんが、
「紳助・竜介」解散会見の際、

阪神・巨人やサブロー・シロー、
ダウンタウンには勝てない。

と、おっしゃったことで、

当時、まだ無名に近かった「ダウンタウン」の名前が、
一躍、広く知れ渡ることとなったのでした。

そして、同年秋、「ダウンタウン」は、
「太平サブロー・シロー」の深夜番組、
「今夜はねむれナイト」内の、

3分程度のコーナー、
「ダウンタウン劇場(シアター)」で、
テレビレギュラーを獲得すると、

「ダウンタウン劇場(シアター)」より。

若い世代向けのラジオ番組「おっと!モモンガ」でも、
金曜日の司会者に抜擢。

また、「心斎橋筋2丁目劇場in 南海ホール」でのライブも、
若い世代を中心に、次第に反響を呼び始め、

1986年はじめ頃には、大勢の観客が詰めかけ、
入場できないほどの人気に。

同年5月に「心斎橋筋2丁目劇場」として、
リニューアルオープンした後は、
若い世代が連日、劇場に足を運ぶなど、
ダウンタウンの人気はうなぎのぼりとなったのでした。

「4時ですよーだ」

そして、1987年には、
「心斎橋筋2丁目劇場」を会場とした、
夕方の番組「4時ですよーだ」で司会に抜擢されると、

この番組は、平日4時台の番組としては驚異的な、
最高視聴率16%という数字を叩き出し、

「ダウンタウン」は、関西で、
若い女性を中心に大ブレイク。

この「ダウンタウン」の人気を受けて、
吉本総合芸能学院は、1987年度、1988年度の生徒数が、
それ以前の総数よりも増加したそうで、

当時のダウンタウンの人気は、
凄まじいものがあったようですね。

東京進出

そんな「ダウンタウン」は、
1989年には、東京へも進出。

同年、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」が、
深夜枠でスタートすると、

過激なものからシュールなものまで、
様々な企画がウケ、

現在では、大晦日の特番として、
民放最高視聴率を叩き出すに至っています。

さらに、1991年に、ゴールデンタイムで、
「ダウンタウンのごっつええ感じ」が放送開始すると、

お得意のシュールなコントがウケ、
全盛期には、視聴率20%を超える人気番組に。

人気を不動のものとした「ダウンタウン」は、
その後も、お笑いの枠にとどまらず、

音楽番組「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」で、
司会を務められたり、
それぞれ単独でも活躍されています。

「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」より。

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二人の仲は?

そんなお二人の「仲」について、
多くの方が検索されているようですが、

浜田さんが、テレビ番組、
「教訓のススメSP」に出演された際、
松本さんのことを、

ダウンタウンはこの人(松本)の才能でここまできたから、
リスペクトしてますよ。

と明かされている一方で、

松本さんは、浜田さんについて、

こいつは唯一、俺のない部分を持ってる。
そこにガーッと行くか、とか、
ゲストに斬り込んでいくとことか。
尊敬(リスペクト)はしてないよ。

と、ちょっと照れておられたとか。

そして、松本さんは、
浜田さんとのコンビについて、

夫婦と似てる。別れる理由がないし。

と、夫婦にも例えられており、

照れながらも、浜田さんを、
強く信頼されているご様子でした。

さて、いかがでしたでしょうか?

ちなみに、「ダウンタウン」の最後は、
「花月で漫才をしよう」と、松本さんと約束していると、
語っておられた浜田さん。

やはり、お二人の固い絆は、
下積み時代から共に過ごされてきた時間が、
作り上げたものにほかありませんね。

とりあえず、「花月で漫才」は、
当分、先伸ばしにして頂いて、

夫婦顔負けの息の合ったコンビぶりで、
まだまだ、私達を楽しませてほしいですね。

応援しています!!

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