「春咲小紅」「電話線」「ひとつだけ」などの名曲を世に送り出された、ミュージシャンの矢野顕子(やの あきこ)さん。即効性に溢れる演奏が特徴で、同じ曲を弾いても二度と同じ演奏をすることがないと言われています。


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プロフィール!

矢野さんは、1955年2月13日生まれ、
東京都のご出身です。

身長159センチ、

出身大学は、
青山学院高等部中退、

だそうです♪

音楽的才能の開花

矢野さんは、幼い頃から、
ピアノを習い始めるのですが、

あまり指が上がらなかったため、
先生に、鍵盤にカミソリを入れられるという、
厳しいレッスンを重ねていたそうです。

それでも、その日の出来事を、
即興の演奏と歌で披露されたり、

発表会で演奏する曲を、
即興でアレンジされるなど、
早くもその才能を発揮されていたそうで、

1971年、15歳になると、
高校入学のため上京し、
憧れの軽音楽部に入部されるのですが、

次第に部活動だけでは物足りなくなり、
お父さんの知り合いのジャズクラブ、
「青山ロブロイ」を訪れるように。

そして、とうとう、矢野さんは、
「青山ロブロイ」に下宿しながら、
毎晩、演奏を披露するようになったのでした。

すると、たちまち、このことが、
音楽関係者の間で噂になり、

矢野さんは、高校2年生の夏休み、
ついに高校を中退し、
プロの道を目指されたのでした。

バンド「ザリバ」でデビュー

そして、1973年には、細野晴臣さんや、
キャラメル・ママ(のちティン・パン・アレー)などの
ミュージシャンとセッションを繰り返し、

荒井由美さん、吉田美奈子さんなど、
様々なアーティストのレコーディングにも参加。

翌年の1974年、バンド「ザリバ」として、
シングル「或る日」でデビューされるのですが、

「ザリバ」の頃の矢野さん(左から2人目)

レコード会社は、
矢野さんにしか興味がなかったため、

シングル1枚を発表しただけで、
すぐに解散となったのでした。

「JAPANESE GIRL」でソロデビュー

そして、1976年、矢野さんは、
ファーストアルバム「JAPANESE GIRL」で、
ソロデビューされています。

「JAPANESE GIRL」

ちなみに、このアルバムを製作するにあたり、
アメリカのバンド「リトル・フィート」
をバックバンドに迎えるのですが、

「リトル・フィート」のメンバーたちは、
矢野さんの才能に驚嘆したそうで、

リーダーのローウェル・ジョージさんは、
矢野さんの音楽レベルに対して、
自分たちが十分サポートしきれなかったことを、
プロデューサーに詫び、
ギャラを受け取らなかったと言われています。

「YMO」のサポートメンバーに

また、同年、矢野さんは、
YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に、
サポートメンバーとして参加。

その後も、1979年、1980年と、
「YMO」のワールドツアーに参加されるのですが、

逆に、「YMO」も、1978年、
矢野さんの「ト・キ・メ・キ」ツアーに参加されるなど、
お互い、サポートしあっていたようです。

左端が矢野さん。右の3人がYMO(左から、細野晴臣さん、
坂本龍一さん、高橋幸宏さん)

矢野さんは、「YMO」との出会いについて、

最初は、わたしのコンサートに、
YMOがバックバンドとして出演したことがきっかけ。
でも、すぐに逆転しちゃった。

と、茶目っ気たっぷりに、
語っておられました。

また、「YMO」に呼ばれた理由を、

バンドサウンドを作る上で、
坂本の鍵盤だけではカバー出来ない部分があって。

演奏に必要な音の厚みを出すために呼ばれた。

と、明かされています。

後に、矢野さんは、
「YMO」の演奏技術の高さを絶賛されており、

「YMOは世界最高のダンスバンドだった」

ともおっしゃっていることから、

このワールドツアーは、
そんな天才たちが集まった、
すごいツアーだったようですね!

出前コンサート

ところで、矢野さんは、1982年、
後に矢野さんの代表的な音楽活動となる、

ピアノがあって演奏可能な場所ならどこへでも出向く
「出前コンサート」をスタート。

公演する場所には、沖縄そば屋の二階や、
古い公民館などがあったそうですが、

地方では、古いピアノを触ることも多く、
ピアノを開けると、中に虫がおり、
その虫が鍵盤を食べていたこともあったとか!

それにしても、ミュージシャン自ら、
出向いてくれるなんて、
ファンとしては、とてもうれしい企画ですが、

矢野さんはこの企画を始めた理由について、

昔はレコードが出るとツアーをやっていたけど、
例えば東京と名古屋をやったとして、
「その間の人たちはどうなるの?」ってなって。

電車から見えるあの丘の上の人は、
矢野顕子の歌を知らないだろう。

コンサートに来るにも、
お泊まりしてこなきゃいけない。

「だったらこっちから行けば良いんだ!」となった。

と、明かされていました。

矢野さんは、現在でも、
この「出前コンサート」を継続的に行われており、

ライブを通じて、ファンとのつながりを、
とても大切にされているようです♪

夫は?

そんな矢野さんの、
気になるプライベートですが、

矢野さんは2回結婚され、
2回とも離婚されています。

まず、一人目のご主人は、
音楽プロデューサーで作曲・編曲家の、
矢野誠(やの まこと)さん。

矢野誠さん

1974年に、矢野誠さんが、
顕子さんのプロデュースをされたことにより、
知り合われたそうで、

同年、顕子さんの妊娠を機に結婚。
その後、男の子(風太さん)に恵まれるも、
1979年離婚されています。

風太さん

ちなみに、顕子さんの旧姓は「鈴木」ですが、
デビュー当時は、矢野誠さんと婚姻関係にあったことで、
当時の本名をそのまま芸名として使われているそうです。

二人目の夫

そして2番目のご主人は、
ミュージシャンで、「YMO」のメンバーでもある、
坂本龍一(さかもと りゅういち)さんです。

お二人は、1979年からスタートした、
「YMO」のワールド・ツアーをきっかけに、
急速に仲良くなったと言われているのですが、

当時の矢野さんと坂本さん。

その頃、矢野さんは離婚直後、
また、坂本さんは、奥さんと、
離婚が成立していない状態だったことから、
すぐに結婚とはいかなかったようです。

ただ、1980年には、
長女の坂本美雨さんが誕生したにもかかわらず、

挙式、入籍などにこだわらず、
事実婚を続けておられましたが、

美雨さんが2歳になる、
1982年、お二人は正式に結婚。

坂本さんは当時、

入籍したんだよ。
子どもは他人に任せないで、アッコ(矢野さん)と、
2人で手作りっぽく育てるよ。

と、語っておられたようです。

坂本美雨さんと坂本龍一さん。

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坂本龍一と泥沼離婚へ

しかし、幸せな日々は長くは続かず、
坂本さんが、事務所のマネージャーと、
浮気をしていたことが明るみになります。

ただ、矢野さんが浮気を問いただしても、
坂本さんは謝るばかりで、
関係を断とうとしないどころか、

1990年、夫婦でニューヨークに移住された際、
浮気相手の女性も一緒についてきたとか。

その後、坂本さんは、
すっかり自宅に寄り付かなくなるのですが、

1993年には、なんと、
坂本さんに2歳になる隠し子がいることが発覚。

これには、ついに、矢野さんも、
堪忍袋の緒が切れたようで、

2001年頃から離婚協議が開始し、
2006年にようやく離婚が成立しています。

ちなみに、慰謝料は、
数億円にも及んだと言われているのですが、

2013年、矢野さんは、
野外音楽イベント「WORLD HAPPINESS 2013」に、

バンド「The おそ松くんズ」のメンバーとして、
坂本さんと共演。

個人的な感情と、
アーティストとしてのリスペクトは、
別物なのでしょうかね・・・

さて、いかがでしたでしょうか?

幼いころから、類まれなる、
音楽の才能を発揮し、
周囲を驚嘆させてこられた矢野さん。

もう、すでに60歳を回っているとは、
到底思えない若々しさ(幼さ?)は、

その、少女のような瑞々しい感性が、
そうさせるのかもしれませんね。

これからも、素晴らしい音楽を、
楽しみにしています!!

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