1960年代前半、グループサウンズの礎を築いた、「ザ・スパイダース」。1967年、「夕陽が泣いている」で大ブレイクすると、一躍スターダムに駆け上り、その後も、「なんとなくなんとなく」「あの時君は若かった」などヒットを連発しました。


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「ザ・スパイダース」

1961年、ロカビリーバンド「スウィング・ウエスト」の、
ドラマーとして活動されていた田邊昭知さんは、
「ザ・スパイダース」を一人で結成。

主に、ジャズ喫茶や、米軍キャンプ回り、
堀プロの歌手のバック演奏などで、
活動されていたのですが、

翌年の1962年、かまやつひろしさんに、
メンバー加入とメンバー探しを依頼され、

「ザ・スパイダース」は、次第に、
メンバーを増やしていったのでした。

メンバー探し

まずは、1962年、井上堯之さんが、
池袋のジャズ喫茶「ドラム」で、
「ザ・スパイダース」の演奏に感動し、
自ら加入を志願し、神戸から上京。

次に、田邊さんが、
堀プロから新人デビューされていた堺正章さんを、
熱心に口説き、加入させると、

同じ頃、井上堯之さんの知り合いだった、
大野克夫さんを、ここでも熱心に誘い、
その場で加入させます。

また、翌年の1963年には、
大野さんの高校の後輩だった、
加藤充さんが加入し、

1964年2月には、かねてより、
「ザ・スパイダース」に憧れていた、
井上順さんが参加を志願し、加入。

ここで、「ザ・スパイダース」の、
全盛期のメンバーが全員揃ったのでした。

田邊昭知さん(ドラムス)
加藤充さん(ベース)
かまやつひろしさん(ギター ボーカル)
大野克夫さん(キーボード)
井上堯之さん(リードギター)
堺正章さん(ヴォーカル)
井上順さん(ヴォーカル)


「ザ・スパイダース」

海外アーティストの前座やバックバンドで活動

当初、「ザ・スパイダース」は、
かまやつひろしさんが影響を受けた、
ビートルズの楽曲をコピーし、

「ブリティッシュ・ビート」
と呼ばれるサウンドを演奏されていたのですが、

1964年4月には、
「ピーター&ゴードン」のバックバンド、

1965年1月、9月には、
「ザ・ベンチャーズ」の前座、

同じく6月には、「アニマルズ」
   8月には、「ザ・サファリーズ」「ハニーカムズ」の前座、

1966年1月には、
「ザ・ビーチ・ボーイズ」の前座、

と、来日した海外アーティストの前座や、
バックバンドとしてステージに立ちつつ、

1965年5月には、ファーストシングル、
「フリフリ」でレコードデビュー。

「フリフリ」

当時、日本では、斬新な音楽だった、
ブリティッシュ・ビートに加え、

ミリタリー・ルックを、
いち早く取り入れるセンスの良さと、
コミカルタッチな演出が、高く評価されます。

そして、翌年の1966年には、
2月「ノー・ノー・ボーイ」
4月「ヘイ・ボーイ」
7月「サマー・ガール」



と、次々にシングルを発表するのですが、

当時の日本では、まだまだ、
ムード歌謡曲の勢いが強く、
売上には結びつかなかったのでした。

ヒットを模索

こうして、洋楽ポップスファンからは、
大きく注目され、その音楽性も、
高い評価を受けていた「ザ・スパイダーズ」ですが、

田邊さんは、その状況に満足しておらず、
なんとかヒット曲を出したいと渇望します。

そこで、これまで、ビートルズを真似て、
自分たちで曲を作り、演奏してきたスタイルを考え直し、
外部のプロ作曲家を起用してのヒット作りを模索。

そして、著名なヒットメーカー、
浜口庫之助さんに新曲を依頼するのですが、

浜口さんから提供された楽曲、
「夕陽が泣いている」は、歌謡曲のような曲調で、

それまで、自分たちが演奏したきた音楽との、
あまりの違いに、メンバーは絶句。

しかし、ヒットメーカーである浜口さんの作品に、
文句を言うわけにはいかず、

なんとか、「ザ・スパイダース」らしい、
アレンジを加えて、完成にこぎつけたのでした。

ブレイク!

そして、1966年9月、7枚目のシングルとして、
この「夕陽が泣いている」をリリースすると、
たちまち売上120万枚を超える大ヒットを記録。

「ザ・スパイダース」は、
一躍スターダムに駆け上ったのでした。

「夕陽が泣いている」

実は、ちょうどこの頃、
メンバーたちは、海外に行っており、
自分たちの成功を知らずにいたのですが、

羽田空港に到着した際、送迎デッキが、
無数のファンで埋め尽くされているのを見て、
自分たちが人気バンドへと変貌したことを知ったそうで、

加藤さんは、当時を振り返り、

羽田に着くと飛行機の窓から、もの凄い数の女の子たちが、
手を振りながら何か叫んでいるのが見えたので、
てっきり外国から映画スターでも来日したのかと思いました。

そしたら、なんと僕たちを出迎えに来た、
ファンたちだったんです。

ツアー中に、日本のスタッフからの電話で、
「夕陽が泣いている」が売れているとは聞かされていたけど、

まさかこれほどの騒ぎになっているとは、
夢にも思っていなかったんで驚きましたよ。

その日から僕たちの生活は一変しました。
何処へ行っても追っかけファンたちが待ち構えていて、
凄い騒ぎになってしまってね。

と、語っておられました。

順調満帆

また、翌年の1967年には、
3月の「太陽の翼」
5月の「風が泣いている」
がともにヒット。


さらに、5月には、
スパイダースのヒット曲を映画化した、
「夕日が泣いている」に、映画初出演。

そして、8月には、
映画「ザ・スパイダースのゴー・ゴー・向こう見ず作戦」
で、初主演を務められるなど、

順調な活動が続くのですが・・・

凋落

1967年、ライバルグループの、
「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」が、

シングル「ブルー・シャトウ」で、
150万枚を超える大ヒットを記録。

「ブルー・シャトウ」

さらに、同年夏頃、「ザ・タイガース」をはじめ、
「ザ・カーナビーツ」「ザ・ジャガーズ」など、
若手グループが次々と現れ、
グループサウンズブームが巻き起こると、

「ザ・スパイダーズ」の人気も、
次第に陰りを見せ始めたのでした。

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解散

そして、1969年夏頃から、
観客数の落ち込みが目立つようになると、

個々のメンバーの人気が高かったこともあり、
次第にソロ活動へと転向していくようになります。

特に、堺さんと井上順さんは、
スケジュールが過密となり、

「ザ・スパイダース」は、2人を除く、
5人での活動が多くなっていたのですが、

1970年5月、田邊さんが、
自身の経営する「スパイダクション」での、
マネージメント業務に専念するため、
現役引退を発表されると、

(田邊さんは、現在、「田辺エージェンシー」の、
 代表取締役となられています)

その後、同年9月にリリースした、
シングル「エレクトリックおばあちゃん」
の売り上げはさっぱり。

「エレクトリックおばあちゃん」

そして、ついに、中心メンバーだった、
かまやつさんが脱退されると、

1971年1月、「ザ・スパイダーズ」は、
「第43回日劇ウエスタンカーニバル」
を最後に解散することとなったのでした。

さて、いかがでしたでしょうか?

「夕陽が泣いている」の大ヒットで、
一躍トップスターとなった「ザ・スパイダース」ですが、

この成功で、かねてより、
「ザ・スパイダース」を支持していた、
コアな音楽ファンは離れていったようで、

かまやつさんは、

「夕陽が泣いている」で、
スパイダースは終わったんです。

世間ではスパイダースの始まりであり、
GSブームの始まりだったけど、

大好きな海外アーティストの曲を、
必死でコピーして来た自分の中では、
ひとつの火が消えたんですね。

売れて大衆的になったことで、
それまで付いてた洋楽ファンの男子たちは、

ゴールデン・カップス等、
よりマニアックなバンドへ流れていったし、

新たに付いたミーハー・ファンたちは、
その後タイガースが出てくると、
みんなそっちへ流れて行っちゃった。

と、語っておられます。

自分たちの音楽を追求することと、
セールス的な結果を残すことの両立が、
いかに難しいかが分かるエピソードですが、

2013年に、かまやつさん、
堺さん、井上順さんの3人で、
1日限りの再結成を果たされたように、

今後は、懐かしい曲を、
心から楽しんで演奏してもらいたいですね。

応援しています!!

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