1968年、映画「藪の中の黒猫」で妖怪の猫役を熱演され、一躍脚光を浴びられた、太地喜和子(たいち きわこ)さん。その後、1976年には、映画「男はつらいよ」でマドンナ役を、1978年には、テレビドラマ「白い巨塔」で、花森ケイ子役を好演し、大女優の地位を確立されています。

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出身は?本名は?

太地さんは、1943年12月2日生まれ、
東京都中野区のご出身、

学歴は、
新宿区立牛込仲之小学校
⇒千代田女学園中学校
⇒松蔭高等学校卒業

本名は、読み方違いで、太地喜和子(たいじ きわこ)、

ちなみに、太地さんは、お芝居一筋だったため、趣味はなかったそうです。

当初は別名義で芸能界デビュー

太地さんは、高校在学中の1959年、お父さんが、太地さんを撮影した写真の中で、一番写りのいいものを選び、軽い気持ちで、「東映ニューフェイス」に応募されたところ、当時1000倍と言われた難関を突破し、東映ニューフェイスの第6期に合格。

その後、高校に通いながら、1年間、演技のレッスンを積まれると、翌年の1960年4月に、「東映」と専属契約を結ばれ、同年、「志村妙子」の芸名で、「新・七色仮面」でテレビドラマデビュー。

翌年の1961年には、「悪魔の手毬唄」で映画デビューを果たされ、


「悪魔の手毬唄」より。

その後、
1961年「二人だけの太陽」
     「東京新選組」

1962年「白い熱球」
     「胡蝶かげろう剣」

などの映画に出演されたのでした。

「文学座」へ入所し本格的に女優を目指す

しかし、高校卒業後の1963年には、「東映」と契約を解除され、「俳優座養成所」に第16期生として入所。(第15期生とも言われています。)

その後、太地さんは、大女優だった杉村春子さん主演の舞台「欲望という名の電車」を観て、杉村さんの演技に衝撃を受け、

「人を感動させられるような女優になる」

と、決意されたそうで、

「俳優座養成所」を卒業後の1967年には、杉村さんが所属されていた「文学座」の試験を受け、見事合格。

同年、映画「花を喰う蟲」で、初の主演に抜擢されています。


「花を喰う蟲」

「藪の中の黒猫」で一躍スターダムへ

1968年には、この「花を喰う蟲」での演技が新藤兼人監督に認められ、「藪の中の黒猫」で、猫の妖怪役に抜擢。


「藪の中の黒猫」より。

太地さんは、中村吉右衛門さんや乙羽信子さんといった大スターとの共演の中、妖艶な演技を披露し、一躍スターダムへと駆け上がられると、

その後は、

1969年「弾痕」
1970年「裸の十九歳」
     「やくざ絶唱」

1971年「顔役」


「弾痕」より。

1972年「新座頭市物語 折れた杖」
1973年「喜劇・男の泣きどころ」
1974年「悪名 縄張り荒らし」
1975年「喜劇・女の泣きどころ」


「新座頭市物語 折れた杖」より。勝新太郎さんと太地さん。

などの映画に、立て続けに、助演として出演されたのでした。

「男はつらいよ」でマドンナに

また、1976年、山田洋次監督の映画「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」で、
マドンナ、ぼたん役に抜擢されると、寅さんと意気投合する、情に厚く、きっぷの良い芸者を好演。


「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」より。
太地さんと渥美二郎さん。

山田監督からは、

「寅さんシリーズ最高の傑作」

と、演技を絶賛されるほか、「キネマ旬報助演女優賞」「第一回報知映画賞助演女優賞」を受賞されています。

「白い巨塔」

こうして、着実に、大物女優への階段を登っていった太地さんは、1978年には、山崎豊子さん原作のテレビドラマ「白い巨塔」で、財前五郎の愛人、花森ケイ子役を演じ、その地位を不動のものに。

花森ケイ子は、財前五郎の心の拠り所となる女性なのですが、優しさや控えめな中にも芯の一本通った演技は、演技という枠を超えた太地さんの生き方そのものが反映され、見るものの心に強く印象を残したのかもしれませんね。


「白い巨塔」より。太地さんと田宮二郎さん。

ちなみに、「白い巨塔」は、太地さんが出演された1978年度版以外にも、1967年度版、1990年度版、2003年度版とあり、花森ケイ子の描かれ方も若干の違いはあるのですが、今なお、ネット上では、太地さんを絶賛する声が多く見受けられました。

杉村春子の後継者として期待される

また、太地さんは、舞台女優としても数多くの作品に出演されているのですが、

舞台「欲望という名の電車」では、ヒロイン、ブランチ役を長年務められていた、女優の杉村春子さんに、

ブランチ役を、太地喜和子にバトンタッチしたい

と、熱望され、「文学座」からも、「杉村春子の後継者」として、大きな期待を寄せられたのでした。


「欲望という名の電車」より。杉村春子さん。

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死因は?

そんな太地さんは、1992年、文学座の巡業公演「唐人お吉ものがたり」で、静岡県伊東市を訪れるのですが、翌日に巡業が終わるはずだった、10月12日に公演が終わり、スナックで飲んだ後に、

「海が見たい」

と、太地さんが言い出したことから、一行は、スナックのママが運転する車で海へ。

そして、そのスナックのママの知り合いで、桟橋に停泊している貨物船の船長を訪ね、海上から海を見ようということになったのですが、あいにく、その日に限って船長は不在。

そこで、太地さんたちは、桟橋の駐車場に車を留め、全員、車を降りて海を見ていたのですが、そのうち、小雨が降ってきたため、車に戻り、車を後退させると、誤って桟橋から海に転落。

他の同乗者は、必死に泳ぎ、助かったのですが、太地さんは、泳げなかったことや、深酒していたことが原因で、帰らぬ人となってしまったのでした。

さて、いかがでしたでしょうか?

遺作となった「唐人お吉ものがたり」では、1年以上、役作りに励むなど、全身全霊をかけ、「欲望という名の電車」のヒロインでも期待されていた矢先の事故死ということで、本当に残念としかいいようがありません。

ちなみに、太地さんは、大女優として名を馳せる一方で、志村けんさんの大ファンを公言し、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」などのバラエティ番組で、コントを披露されており、亡くなった際には、「志村けんのだいじょうぶだぁ」で、急遽、追悼企画が放送されたのでした。

太地さんのご冥福をお祈り致します。

「太地喜和子の恋愛遍歴!三國連太郎!中村勘三郎!伊丹十三!志村けんも!」

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