1956年「ビルマの竪琴」、1965年「飢餓海峡」などで主演を務められ、日本の映画界を代表する俳優となられた、三國連太郎(みくに れんたろう)さん。近年は、「釣りバカ日誌」シリーズの「スーさん」役ですっかりお茶の間の人気者となられていました。

そんな三國さんの、生い立ちから、
映画界に入られるまでの半生を調べてみました!

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出身は?身長は?本名は?

三國さんは、1923年1月20日生まれ、
群馬県太田市のご出身、

身長176.3センチ、
体重71キロ、

血液型はA型、

本名は、
佐藤政雄(さとう まさお)、

学歴は、
旧制豆陽中学中退、
(現在の静岡県立下田高等学校)

趣味は、読書、

だそうです。

中国まで家出

三國さんのお父さんは、
普段は優しかったのですが、

怒ると、殴ったり蹴ったりといった、
暴行をされたことから、

三國さんは、お父さんから逃げることしか考えられず、
家出を繰り返していたそうで、

中学を中退されると、
なんと、朝鮮半島から中国大陸へと家出。

現地では、弁当売りなどをしながら、
生活されていたのだそうです。

徴兵拒否で逃亡するも・・・

そして、帰国後は、大阪で、
皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工など、
様々な職を転々とされていたのですが、

1943年、大阪で働いていた、
20歳の三國さんのもとに、
徴兵検査の通知が送られてきたそうで、

三國さんは、実家に戻り、
検査を受けられると、甲種合格。

(甲種合格とは体格に優れていて、
 現役兵に採用できる、第一級の判定のこと)

すると、その後、三國さんに、
赤紙(召集令状)が来るのですが、

三國さんは、
暴力や人の勇気が嫌いだったことから、

戦争に行きたくない。
戦争に行けば殺されるかもしれない。
死にたくない。何とか逃げよう。

と、当時、同居していた女性と一緒に、
中国へ行くため、貨物列車に乗って九州を目指すことに。

そして、三國さんは、途中で、
郷里に残してきた家族が心配になり、
お母さんへ宛てて、

心配しているかもしれませんが、自分は無事です。

という内容の手紙を投函されるのですが、

この手紙の投函スタンプのせいで、
居場所が分かってしまい、

三國さんは、佐賀県の唐津で、
憲兵に捕まり、連れ戻されてしまったのでした。

(ちなみに、徴兵から逃げた家は、村八分となるため、
それを恐れたお母さんが憲兵に通報したのだそうです)

※村八分(むらはちぶ)となると、地域の住民全員に交際を絶たれ、
薪や肥料も入手出来なくなり、事実上、生活が出来なくなったそうです。

徴兵

こうして、三國さんは、
「歩兵第34連隊」に入れられると、
中国大陸の前線に送られるのですが、

戦地へ向かう途中、体を壊して熱病にかかり、
10日もの間、意識不明に。

このような状態から、
すでに死んだものだと思われ、

工場の隅で、藁(わら)の敷物をかぶせられ、
放置されたそうで、

その後、ついに焼き場まで運ばれ、
いざ、焼く番となって、敷物を剥ぎ取られたときに、
目を覚ましたのだそうです。

そして、その後、三國さんは、
漢口(中国の地名)の兵器勤務課に配属され、
無事、終戦を迎えることが出来たのでした。

(ちなみに、三國さんの部隊は、総勢千数百人いたそうですが、
 生きて帰国できた人は20人から30人に過ぎなかったそうです)

帰国

その後、三國さんは、中国で、
捕虜収容所に抑留されるのですが、

その間、自作の化粧品などを売って、
過ごされたそうなので、

「シベリア抑留」のような奴隷的強制労働を、
させられていた訳ではなかったのでしょう。

そして、中国から復員の際、
妻帯者が早く帰国できると聞いた三國さんは、
同じ佐藤姓の女性と1946年4月に偽装結婚。

同年6月に帰国されると、宮崎市にある、
奥さんの実家に身を寄せ、宮崎交通に勤務。
バスの整備士として働かれたのでした。

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農協の職員を経て映画界へ

しかし、三國さんは、
1948年には、妊娠中の奥さんと離婚。

その後、鳥取県倉吉へ行かれ、
戦時中に知り合われた人の紹介で、
農協に入られると、組合長の秘書をされ、

まもなく、土地の資産家の娘と、
再婚されたのでした。

そして、1950年には、
農協を辞め、単身上京。

福島市を拠点に闇商売を始め、
一時は大儲けするも、最終的には挫折すると、

1950年12月、
東銀座を歩いていたところを、

松竹のプロデューサー、小出孝さんに、

「俳優にならないか」

とスカウトされたのでした。

「三國連太郎の若い頃は?死因は?善魔?釣りバカ日誌でスーさん!」に続く

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