1951年、映画「善魔」でデビューされ、以降、数多くのテレビドラマや映画で、アクの強い演技を披露してこられた、俳優の三國連太郎(みくに れんたろう)さん。デビュー当時、「いい映画に出て、好きな役を演じたい」という純粋な思いが、思わぬトラブルを巻き起こしています。

「三國連太郎の身長は?生い立ちは?農協の組合員だった!」からの続き

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松竹へ入社

こうして、スカウトされた三國さんは、

「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」

と言われると、

「電車代と飯代を出してくれるなら」

という条件のもと、
松竹大船撮影所に行かれたそうで、

そこで、木下惠介監督の助監督をしていた、
小林正樹さんに呼び止められ、
木下監督を紹介されたのでした。

ちなみに、三國さんが鳥取にいた頃、
いつも出入りしていた写真館の主人も、

松竹の「あなたの推薦するスター募集」に、
三國さんの写真をこっそり送っていたそうです♪

映画デビュー作で早くも期待の新人に!

その後、三國さんは、
松竹大船撮影所へ研究生として入られると、

翌年の1951年、
木下監督の助監督を務められていた、
松山善三さんの推薦により、

木下監督作品「善魔」主演の岡田英次さんが、
レッドパージで出演取り止めとなった代役として、
主演に抜擢され、映画デビュー。

(レッドパージとは、いわゆる「赤狩り」で、連合国軍占領下の日本は、
「日本共産党員とその支持者」が、排除されていたそうです。)

すると、三國さんは、この映画の演技で、
いきなり、「第2回ブルーリボン新人賞」を受賞。


「善魔」より。三國さんと桂木洋子さん。

早くも、当時の2枚目スターだった、
高橋貞二さん、佐田啓二さん、鶴田浩二さんに続く、
期待の新人となったのでした。

(ちなみに、三國さんは、この時の役名だった、
 「三國連太郎」を芸名にされています。)

大物俳優の存在感を漂わす

そして、1951年には、同じく木下監督の作品、
「少年期」「海の花火」に立て続けに抜擢。

実は、デビュー当時、
松竹が流した三國さんの経歴は、

本名、生年月日、身長、体重以外は、
ほとんどデタラメだったそうですが、

三國さんは、

「それもまた役者の象徴」

と考え、意に介さなかったそうで、

木下監督は、そんな新人離れした、
大物感を漂わせる三國さんに対し、

野放図に自分をさらけ出して、
楽になるように人物像を作り上げなければだめだ。

と、作品を作る段階で、
三國さんの資質を活かすことに、
務められたと言われています。


「海の花火」より。三國さんと木暮実千代さん。

無断で東宝と契約

ところで、1952年1月中頃、
東宝は、松竹に対し、

映画「戦国無頼」に、
三船敏郎さんの共演者、速見十郎太役として、
三國さんを希望し、正式に依頼するのですが、

松竹は、三國さんがまだ研究生であること、
また、松竹の社員であることを理由に拒否。

その後、東宝は、松竹と三國さんとの間に、
正式な契約がないことを知り、
三國さん本人と交渉を進めると、

三國さんもこの話に乗り気になり、
「戦国無頼」への出演を希望。

1月末に出演料の50万円の一部である、
20万円を受け取られたのでした。

(ちなみに、三國さんの松竹での給料は、
 月5300円、出演料1本につき4万円でした。)

一旦は謝罪するも、再度、東宝と契約し、松竹から解雇

結果的には、三國さんは、同年2月、
東宝と正式に出演契約を結ばれるのですが、

実は、「戦国無頼」に出た後は、
松竹に戻るつもりだったそうです。

しかし、松竹が三國さんの解雇を決定したことで、
慌てた三國さんは、松竹に謝罪され、

東宝映画に出演しないことを条件に、
解雇を取り消してもらい、
東宝へも出演契約破棄を申し出られたのでした。

こうして、この問題は、
白紙となったはずのなのですが・・・

三國さんは、結局、「戦国無頼」に出演。


「戦国無頼」より。三國さんと浅茅しのぶさん。

三國さんは、3月に、
松竹から正式に解雇されると、

義理人情を欠く「アプレ・スター」と、
叩かれたのでした。

(「アプレ・スター」とは、フランス語が由来で、
 スターとなって天狗になった人という意味。)

東宝とも一悶着

こうして、強引に、
条件のいい東宝へと移られた三國さんなのですが、

「戦国無頼」出演以降はぱっとしなかったようで、
そんな折、東映から映画「人生劇場」のオファーが。

ただ、これは、
東宝の引き止めにあい、出演を断念。

その後、三國さんは、東宝から、
完全専属再契約を求められるのですが、

これを拒否し、あくまでも、
フリーの立場を取ることを主張され、
東宝と一悶着。

そして、三國さんは自分の考えを曲げず、
1954年、東宝映画「宮本武蔵」に、
出演中にもかかわらず、

製作開始して間もない、
日活の「泥だらけの青春」に、
出演されることに。

ここで、東宝が待ったをかけるのですが、
三國さんは、日頃から、東宝の企画に対する、
不満などもあったことから、
出演の意志を強固なものにすると、

結局は東宝が折れて、同年7月、
日活映画「泥だらけの青春」に出演されたのでした。


「泥だらけの青春」より。乙羽信子さんと三國さん。

映画会社からボイコットを受けるも、日活と

しかし、その直後、日活を除く、
大手映画制作会社5社である、
松竹、東宝、大映、新東宝、東映が、

映画会社同士の、監督・俳優の引き抜きを禁じる
「五社協定」の違反第一号に三國さんを指定。

こうして、三國さんは、5社から、
完全に出演をボイコットされてしまったのでした。

それでも、三國さんは、翌年の1955年、
「五社協定」に加盟していない、
日活と専属契約を結ばれると、

1955年「警察日記」
1956年「ビルマの竪琴 第一部・第二部」
     「死の十字路」

1957年「鷲と鷹」
     「美徳のよろめき」


「美徳のよろめき」より。月丘夢路さんと三國さん。

など、次々と日活映画に出演。

着実にキャリアを積まれ、映画スターとして、
ますます、貫禄をつけていかれたのでした。

契約・フリーを繰り返す

そんな三國さんは、1956年の年末に、
日活の契約切れとともにフリーになると、

1959年には、「他社出演の自由」を条件に、
東映と契約。

ちなみに、三國さんは、1963年に、
映画会社「日本プロ」を設立し、
第1作目「台風」を企画・監督されているのですが、

さすがの東映も、

「独立プロ活動は許さない」

と、反対し、公開中止となっています。

そして、1965年、
東映を離れて、再びフリーとなられた三國さんは、

以降、

テレビドラマでは、

1965年松本清張シリーズ」


松本清張シリーズ「霧の旗」より。山口百恵さんと三國さん。

映画では、

1966年「脅迫(おどし)」
1968年「神々の深き欲望」
1969年「新選組」


「神々の深き欲望」より。三國さんと沖山秀子さん。

などに出演されています。

映画監督として

その後、三國さんは、1969年に、
プロダクション「A・P・C」を設立されると、

テレビ映画「チチン・プイ・プイ」や、
CMの制作をされ、

(テレビ映画とは、テレビ用にフィルムで撮影されたもの)

1972年には、自主制作映画「岸辺なき河」
の制作のため、アフガニスタンの砂漠で、
約50日間の撮影を行われるのですが、
「台風」同様、未完成で終了。

ただ、その14年後の1986年、
ついに、映画「親鸞・白い道」を完成。


「親鸞・白い道」

「カンヌ国際映画祭」で、
審査員特別賞を受賞されています。

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「釣りバカ日誌」で活躍するも・・・

その後、三國さんは、
1988年から2009年まで、
20年以上もの間、

テレビドラマ「釣りバカ日誌」シリーズで、
スーさんこと、鈴木社長役で出演され、
お茶の間の人気を博されていたのですが、

2000年代に入ると、
テレビ・映画ともに出演が激減。

2012年には、
老人ホームで暮らされていることが報じられ、

翌年の2013年、「急性呼吸不全」により、
90歳で他界されたのでした。


「釣りバカ日誌」より。(左から)三國さん、
石田えりさん、西田敏行さん。

さて、いかがでしたでしょうか?

デビュー以来、専属契約とフリーを、
繰り返されてきた三國さんですが、

三國さんは、映画監督の稲垣浩さんに、

会社は僕を商品だと思っているようですけれど、
僕は息をしている人間なのですから、
好きなものは好きで、いやなものは嫌だと言いたい。

と、よくおっしゃっていたとか。

しかし、これだけ、わがままを通しても、
映画界からオファーを受け続けた三國さんの才能は、
よほど稀有なものだったのでしょうね。

この機会に、そんな三國さんの、
若かりし頃の作品を観てみられてはいかがでしょう♪

「三國連太郎の妻は?結婚歴4回離婚歴3回!息子は佐藤浩市!」

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