四谷シモンは人形作家で俳優!状況劇場で女形?コシノジュンコと?ベルメール?

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12歳から人形を作り始め、20歳の時、ハンス・ベルメールの球体関節人形を見て衝撃を受け、以来、独自の人形を制作されている、四谷シモン(よつや シモン)さん。その一方で、唐十郎さん率いる劇団「状況劇場」の公演に参加されるなど、俳優としても活動されていました。




プロフィール!


四谷さんは、
1944年7月12日生まれ、
東京都のご出身。

本名は、小林兼光さん、

だそうです♪


家庭不和


四谷さんは、お父さんがタンゴの演奏者、
お母さんがダンサーという家庭で生まれ育ったのですが、

両親は喧嘩が絶えず、四谷さんが9歳の時、
お母さんが別の男性と駆け落ちし、
家を出てしまいます。

そして、四谷さんは、
お父さんと3歳年下の弟と、
3人で暮らすことになるのですが、

お母さんに会いたくなった四谷さんは、
10歳の時、弟を連れてお母さんを探しに行くと、
そのまま、お母さんのもとで暮らし始めたのだそうです。


人形を作り始める


そんな四谷さんは、
「学芸会でつけるお面をつくりましょう」
という4コママンガを見て、興味を持ち、
新聞紙とうどん粉でお面を作られると、

その後も、映画「笛吹童子」を観て、
しゃれこうべのお面を紙粘土で作られたそうで、

12歳になると、粘土で、
ぬいぐるみや人形を作り始め、

日本橋・高島屋の人形展に通うなど、
早くも人形に魅せられていったそうです。

ただ、その一方で、またもや、
お母さんが別の男性と浮気をしたり、

度重なる引っ越しなどで、
生活は荒んでいったのでした。


人形作家に師事


そして、中学入学後は、
日本橋・高島屋に飾られていた人形が好きになり、
作家の林俊郎さんを訪ねられると、

林さんの内弟子、坂内俊美さんの、
手伝いをするようになり、
ぬいぐるみ作りのテクニックなどを教わったそうで、

(14歳の時には、人形作家、川崎プッペさんの、
 アトリエを訪ねられているようですが、
 どのようなやり取りがあったのかは分かりませんでした。)

この頃、四谷さんは、
以前にも増して、頻繁に、
「現代人形美術展」などを見に行くようになり、

「人形を作り続けたい」

と考えるようになっていきます。

しかし、その一方で、
家庭内でのいざこざは続き、

お母さんの再婚や、
再婚相手の事業失敗で家を失うなどの、
トラブルに見舞われたようで、

四谷さんは、情緒不安定になられたのか、
不良仲間と付き合うようになり、
万引事件などを起してしまいます。

ただ、人形作りへの情熱は、
持ち続けていた四谷さんは、

中学卒業間近になると、
高校にも進学せず、就職もしない四谷さんを、
心配した担任の先生にどうするのか聞かれると、

「先生、僕、人形でやっていきます」

と、宣言されたのでした。

人形制作に励む


こうして、四谷さんは、
中学卒業後、家を出ると、

東京自由が丘の鮨屋でアルバイトをしながら、
人形制作に励まれます。

(ちなみに、この頃、自由が丘のあるショップに、
 置かせてもらっていた人形が、2000円で売れたそうです♪)

そして、16歳の時、坂内さんの紹介で、
ぬいぐるみ人形作家の水上雄次さんの、
内弟子となられると、

18歳の時、水上さんの勧めで、
「現代人形美術展」「希望」と名付けた、
ぬいぐるみを出品、入選されています。


金子國義との出会い、ロカビリー歌手として


ところで、四谷さんは、同時期、
新宿のジャズ喫茶にも出入りされており、

画家の金子國義さんや、
ファッションデザイナーのコシノジュンコさんらと、
知り合い、親交を深められたそうで、


金子國義さんとコシノジュンコさん。

やがて、四谷さんは、ジャズの女性歌手、
ニーナ・シモンが好きだったことから、
「シモン」と呼ばれるようになり、

ご自身も、ロカビリー歌手になろうと、
オーディションを受けられたのだとか。

残念ながら、オーディションは、
不合格だったそうですが、

四谷さんは、佐々木功さんの前座歌手となって、
各地をドサ回りする日々を送られたのでした。

実は、この頃、四谷さんは人形制作に関して、
何か物足りなさを感じておられたそうで、

そのような理由から、
ロカビリーに走られたのかもしれませんね。


ハンス・ベルメールの球体関節人形と出会う


しかし、そんな日々の疲労がたまったのか、
四谷さんは、体調を崩してしまい、
ロカビリー歌手を辞めて、東京に戻られます。

そして、1965年春、古本屋で、
雑誌「新婦人」を読んでいると、

ドイツのシュールレアリスト(無意識を表現する主義の者)、
ハンス・ベルメールの人形の写真を見て、衝撃を受けたそうで、

家に帰ると、今まで、自分が作った人形や材料を、
すべて捨ててしまうほどのショックを受けたそうです。


ハンス・ベルメールの作品。

四谷さんは、その時のことを振り返り、

「新婦人」という雑誌には、
僕の人生を変える一枚の写真が載っていました。
ハンス・ベルメールの人形の写真です。

全体は人間の下半身が2つ胴体でつながったような、
ぐにゃぐにゃとした形で、その股ぐらから、
少女の顔が突き出しているのです。

瞬間、「何、これが人形?」ということが、
僕の体を火花のように貫きました。

その写真を紹介した記事のなかに、
「女の標識としての肉体の痙攣」
という意味の言葉がありましたが、

僕は文字どおりその写真に痙攣したのです。
エロティシズムに驚いたのではなく、

「関節があって動くこと」、
だからポーズがいらない、
ということがいちばん大きかったのです。

と、語っておられました。

澁澤龍彦との出会い


さらに、四谷さんは、この時、
ハンス・ベルメールを紹介する記事を書いた、
作家、澁澤龍彦さんのことも初めて知ったそうで、

この日から、澁澤さんの著作も、
読むようになっていったそうです。


澁澤龍彦さん

そして、その2年後の1967年1月、
四谷さんは、友人の金子さんに誘われて、
澁澤さんの自宅を訪問。
(金子さんと澁澤さんは友人だったため)

この時、具体的に、どのような、
やり取りがあったのかは分かりませんでしたが、

その後も、四谷さんの人生に、
澁澤さんが深く関わってくることから、
とても良い出会いだったのは間違いありません。


劇団「状況劇場」に参加


そんな四谷さんは、
金子さんがお芝居をやると聞き、

翌月の1967年2月、
新宿のジャズ喫茶「ピット・イン」で、

初めて、唐十郎さん率いる劇団「状況劇場」の公演、
「時夜無銀髪風人<ジョン・シルバー>」
を観劇されているのですが、

出演していた金子さんから、
楽屋で、唐さんを紹介されると、

なんと、その3ヶ月後の5月、四谷さんご自身が、
「状況劇場」の舞台「ジョン・シルバー新宿恋しや夜鳴篇」で、
女形として出演されています。


写真は「ルネ・マグリットの男」で、
左が女形演じる四谷さん。右は根津甚八さん。
奥に写っているのは四谷さん制作の人形。


(以降、四谷さんは、1971年まで、
 「状況劇場」の公演に参加されています。)

そして、この時、四谷さんは、
金子さんに会いに来た澁澤さんと楽屋で再会。

その年の9月には、
金子さんの個展を観に行かれた際に、

同じく来場されていた澁澤さんに、
自作の人形の写真を見てもらうなど、
親交を深めていかれたのでした。

「本格的な人形作家デビュー~現在は?」に続く



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