伊丹十三!お葬式で監督デビュー!ミンボーの女で襲撃!

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商業デザイナー、俳優、テレビ番組制作を経て、1984年、51歳の時に、「お葬式」で映画監督としてデビューされた、伊丹十三(いたみ じゅうぞう)さん。以降も、「マルサの女」「ミンボーの女」「大病人」「スーパーの女」を制作され、ハリウッド映画が主流だった当時の映画館において、唯一、日本人の監督として大ヒットを飛ばしました。




プロフィール!


伊丹さんは、1933年5月15日生まれ、
京都府京都市右京区鳴滝泉谷町のご出身、

身長180センチ、

戸籍は、池内義弘(いけうち よしひろ)、
本名は、池内岳彦(いけうち たけひこ)、

(おじいさんの希望で、「義弘」となったそうですが、
 お父さんが「岳彦」がいいということで、
 普段は、「岳彦」を使っておられたようです。)

奥さんは、女優の宮本信子さん、
長男は、俳優の池内万作さん、
次男は、伊丹プロダクション取締役の池内万平さん

その他、義弟(妹の夫)に、
作家の大江健三郎さんがいらっしゃいます。

ちなみに、伊丹さんは、
家事や子育てに関心が深く、
料理の腕も一流だったそうです♪


商業デザイナーとして


伊丹さんは、転校が多く、その影響か、
休学されていた時期があり、
1954年、20歳で高校を卒業されると、
大阪大学理工学部を受験。

しかし、不合格となり、上京。
「新東宝」編集部に就職し、
映画編集の仕事に携わります。

ただ、同年、早くも商業デザイナーに転身。
車内の広告や目次のデザインを手がけられたそうです。

その商業デザイナーも、ほどなくして辞められると、
ヨーロッパ旅行へ出かけられ、帰国後は、
舞台芸術学院で学ばれたのでした。

ちなみに、伊丹さんは、デザインが好きで、
退社後も、自著をはじめ、様々な本の装丁、
ブックカバー、ポスターなどをデザインされています。

特にレタリングが得意だったそうです♪


「伊丹十三記念館ガイドブック」。
カバーのイラストは伊丹さんによるもの。



俳優へ


そんな伊丹さんは、1960年、
26歳の時に、大映に入社されると、

芸名「伊丹一三」を名乗り、
映画「嫌い嫌い嫌い」で俳優デビュー。

その後も、

「銀座のどら猫」
「偽大学生」
「黒い十人の女」


と、続けざまに出演されるのですが、
1961年には、大映を退社。

大映退社後は、

1963年「北京の55日」
1965年「ロード・ジム」

などの外国映画にも出演され、
存在感のある演技で話題となったようです。


俳優時代の伊丹さん。


多方面で才能を発揮


そして、1967年、「マイナスからプラスに」という意味を込めて、
「伊丹一三」から「伊丹十三」に改名されると、

映画、テレビドラマで、
存在感のある脇役として活躍。

1970年代には、俳優業以外にも、
テレビ番組制作会社「テレビマンユニオン」に参加され、

紀行番組「遠くへ行きたい」などの、
ドキュメンタリー番組やテレビCMの制作。

また、1970年代後半には、
お昼の情報番組「アフタヌーンショー」で、
未解決事件コーナーのレポーターとして出演。
緻密な取材で司会者を驚かせられています。

さらに、1981年には、精神分析を軸にした、
雑誌「モノンクル」を創刊、編集長を務められ、

1983年には、俳優として、
「家族ゲーム」「細雪」で、
キネマ旬報助演男優賞を受賞と、

多方面で才能を発揮されています。


「家族ゲーム」より。(左から)由紀さおりさん、
伊丹さん、松田優作さん。



映画監督デビュー


そして、翌年の1984年(51歳)、
映画監督に転身し、「お葬式」で監督デビューされると、

いきなり、
「日本アカデミー賞」
「キネマ旬報ベスト1」

ほか、数多くの映画賞を総なめにし、
高い評価を受けられます。


「お葬式」より。宮本信子さんと山崎努さん。

ちなみに、この作品は、
葬式を出すことになった夫婦のひと騒動を、
皮肉を交えながら描かれているのですが、

伊丹さんが、妻、宮本信子さんのお父さんの、
お葬式を取り仕切ったことから、
インスピレーションを得て制作されたのだそうです。


宮本信子を主演とした「伊丹映画」を確立


伊丹さんは、その後も、

1985年「タンポポ」
1987年「マルサの女」
1988年「マルサの女2」
1990年「あげまん」
1992年「ミンボーの女」


「マルサの女」より。宮本信子さんと津川雅彦さん。

など、宮本信子さんを主演とした映画を、
数多く制作されているのですが、

伊丹さんは、かねてから、
宮本さんの女優としての才能を高く評価しており、

ずっと脇役に甘んじていた宮本さんを、
主演にした映画づくりを考えておられたのだとか。

そして、これらの作品は、いずれも、
日本の社会に根付く問題を描きながらも、

エンターテイメント性に富む作風で人気を博し、
「伊丹映画」というブランドを確立されたのでした。


「ミンボーの女」襲撃事件


しかし、1992年、
民事介入暴力(民暴)を専門とする、
女性弁護士の戦いを描いた、

「ミンボーの女」が、
公開されて1週間後の夜、

伊丹さんは、自宅近くで、
刃物を持った5人組の男に襲撃され、

顔や両腕などに、全治3ヶ月の、
重症を負ってしまったのでした。

(ちなみに、病院に搬送されるとき、
 取材陣に「大丈夫ですか!」と声をかけられると、
 豪胆にも、ピースサインで答えられたと言われています。)


「ミンボーの女」より。宮本信子さんとガッツ石松さん。


脅しに屈しない!


こうして、辛くも、
手術で一命を取り留めた伊丹さんですが、

それでも、妻の宮本さんを通して、

「これからも(脅しに屈せず)社会派映画を作っていきます」

と、宣言されると、

翌年の1993年には、
「大病人」を制作。

ただ、今度は、映画公開中に、
映画館のスクリーンが切り裂かれる事件が発生。

そのほかにも、脅迫、嫌がらせなど、
数多くの被害を受けることとなったのでした。

「突然の死~その真相」へ続く



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