蜷川幸雄の死因は?17歳で木村拓哉を舞台に!藤原竜也は愛弟子!

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俳優としての活動を経て、1969年「真情あふるる軽薄さ」で演出家デビュー。以降、そのダイナミックな演出で観客を魅了された、蜷川幸雄(にながわ ゆきお)さん。若手俳優を育てられる一方で、高齢者も起用され、常に演劇の新しい可能性を追求されていました。




プロフィール!


蜷川さんは、1935年10月15日生まれ、
埼玉県川口市のご出身です。

血液型はA型、

出身高校は、
開成高等学校、

だそうです♪


劇団員から演出家へ


蜷川さんは、高校を卒業後、画家を志され、
東京芸術大学美術学部を受験するも不合格に。

そんな折、偶然、「劇団青俳」による、
安部公房さんが原作の舞台、
「制服」を見て衝撃を受けたそうで、

1955年、俳優として「劇団青俳」に入団。
しばらくは俳優として活動されていましたが、

映画を見たり、撮影現場で監督と接するなど、
独学で演出を学ばれると、

1968年、同じく「劇団青俳」の団員だった、
蟹江敬三さん、石橋蓮司さん、真山知子さん(後に結婚)らと、
劇団「現代人劇場」を結成し、

翌年の1969年、劇作家、清水邦夫さん作の、
「真情あふるる軽薄さ」で演出家デビュー。


蜷川さんは、演出家となった後も、
まれに、俳優として出演されていたようです。


すると、この舞台が反響を呼び、
1972年には、清水さんとともに、
演劇集団「櫻社」を結成。

以降、お二人はコンビを組み、
反体制的な若者を描いた作品で人気を博します。

そして、1974年には、「櫻社」を解散し、
商業演劇「ロミオとジュリエット」を、
大劇場で上演すると、大成功。

以降、蜷川さんは、
商業演劇に活動の場を移し、

1978年「王女メディア」
     「ハムレット」

1980年「NINAGAWAマクベス」

など、日本人には分かりにくい、
ギリシャ悲劇やシェークスピア劇などを、
大胆にヴィジュアル化し、人気を博したのでした。


海外でも高い評価


また、1983年には、「王女メディア」で、
ローマやアテネなど、初の海外公演を成功させると、
以降、毎年のように海外公演を重ねられ、

1987年には、演劇の本場ロンドンで、
「NINAGAWAマクベス」「王女メディア」を上演。

1999年には、イギリスの名門劇団
「ロイヤル・シェークスピア・カンパニー」の、
「リア王」を演出し、高い評価を受けています。


1999年の「リア王」より。右端は真田広之さん。


17歳の木村拓哉を抜擢


ところで、蜷川さんは、
新劇・小劇場の役者からアイドルまで、
あらゆる人を出演者に起用することで有名で、

1989年には、当時17歳のアイドルで、
まだブレイク前だった木村拓哉さんを起用。

実は、蜷川さんは、1989年の舞台「盲導犬」のため、
「若くて良い俳優」を探しておられたそうで、

ジャニーズ事務所の社長、ジャニー喜多川さんに、
誰か紹介して欲しいと依頼されると、

木村さんと中居正広さんが、
蜷川さんの元に連れて来られ、
最終的に木村さんを起用されたのでした。


木村拓哉から「オジサン」呼ばわり?


ちなみに、木村さんは、蜷川さんの厳しい稽古で、
髪の毛の一部がごっそりと白髪になったそうですが、

そんな厳しい舞台の稽古期間中、
蜷川さんが真夜中に、一人で、
六本木の交差点を渡っていると、

突然、誰かに、

「みっともねぇぞ、そこのオジサン!」

と、言われたそうで、

振り返ってみると、
木村さんが手を振りながら、

「夜中、男が一人で歩くんじゃねえよ!」

と、怒鳴ってきたというのです。

後に、蜷川さんは、
この話を笑い話にされていたのですが、

当の木村さんは、
まったくその時のことを覚えておらず、

稽古が終わって、ボロボロになって。

なんとか前に歩いているぐらいの精神状態で家に帰る時に、
リアルな新宿のコインロッカーの前を歩く時に、
もう一度気持ち悪くなって(笑)。

(舞台「盲導犬」は、新宿のコインロッカーが、
 ストーリーの軸になっていることから)

そういう時間を過ごした後に、六本木の交差点で、
蜷川さんを見つけたから、たぶん言ったんじゃないですかね。
「コノヤロー!」と思って(笑)。たぶんそうじゃないかな。

と、おっしゃっていました(^_^;)

朦朧(もうろう)として、大先輩の蜷川さんに、
そんなことを口走ってしまうぐらい、
ハードな稽古だったことが想像されますが、

木村さんにとって、
蜷川さんと舞台「盲導犬」との出会いは、

「人から拍手してもらえる厳しさと素晴らしさ」

を知り、芸能活動を続ける、
きっかけとなったそうです。

藤原竜也は愛弟子


俳優の藤原竜也さんもまた、
蜷川さんに見出されたうちの一人で、

蜷川さんは、1997年、
当時15歳だった無名の藤原さんを、
舞台「身毒丸」のロンドン公演の主演に抜擢。

蜷川さんは、演技経験のまったくない藤原さんに、
人格を否定することもいとわない、
厳しい演技指導をされたそうですが、

藤原さんは、それに見事答えられ、
本番のロンドン公演では、

「15歳で初舞台とは思えぬ存在感で天才新人現る」

と、絶賛されています。


「身毒丸」ロンドン公演最終日より。左端が藤原さん。

そして、以降も、蜷川さんは、
藤原さんとタッグを組んで、
数々の舞台を一緒に創り上げられると、

やがて、藤原さんは、蜷川さんの
「秘蔵っ子」「愛弟子」と呼ばれるようになっていったのでした。

藤原さんは、蜷川さんについて、

勉強させていただくためにやっていますね。
蜷川さんは深いところで俳優を見てくれるし、
ダメ出しもしてくれます。

蜷川さんの舞台に出ると、自己確認ができるんです。
稽古の時からレベルが高くて、俳優としてだけではなく、
人間としても成長させてもらえます。

と、おっしゃっていました。

また、蜷川さんは、藤原さん以外にも、
小栗旬さん、AAAの西島隆弘さん、高畑充希さん、森田剛さん、
岡田准一さん、二宮和也さん、亀梨和也さん、市村正親さんなど、
数多くの俳優を育てられています。

死去


しかし、そんな蜷川さんも、
2015年12月には、体調を崩され入院。

それでも、病床から演出の指示を出されるなど、
以降も、それまでと変わらず、
精力的に活動を続けられたのですが、

2016年2月から予定されていた、
ご自身の半生をテーマにした、
新作舞台「蜷(にな)の綿」の演出は、
体調悪化のため延期に。

そして、同年5月25日に控えていた、
シェークスピア作品「尺には尺を」の、
初日を迎えることなく、

5月12日、蜷川さんは、
「肺炎による多臓器不全」のため、
他界されたのでした。


10月には、小栗さんと最後のハムレットも、
約束されていたそうですが・・・


さて、いかがでしたでしょうか?

他人にだけでなく、
自分に対しても厳しい姿勢と、

その裏にある愛情深い性格で、
多くの役者から慕われ、

まさに、亡くなる直前まで、
演出家で有り続けた蜷川さん。

そのダイナミックな舞台は、
もう、生で観ることができませんが、

これからもずっと、
映像の中で輝き続けることでしょう。

ご冥福をお祈り致します。



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