市川崑監督はアニメーターだった!意外な人柄とは?金田一シリーズが大ヒット!

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「ビルマの竪琴」「野火」「弟」などの映画や、テレビシリーズ「木枯し紋次郎」などで成功を収め、大原麗子さん出演のサントリーウィスキーのCMなども手がけられ人気を博した、映画監督の市川崑(いちかわ こん)さん。実は、もともとは、ウォルト・ディズニーのアニメに憧れ、アニメーターとして映画界に入られたのだそうです。




ディズニーアニメに憧れアニメーターに


市川さんは、
1915年11月20日生まれ、
三重県伊勢市のご出身。

少年時代は、画家に憧れていたそうですが、
当時は、財産がないと画家にはなれなかったため、
仕方なくあきらめることに。

しかし、その後、
ウォルト・ディズニーのアニメを見て感動し、

1933年、18歳の時、親戚のつてを頼って、
京都の「J.O.スタヂオ」(のち東宝京都撮影所)に入社されると、

トーキー漫画部に入り、
アニメの下絵描きからスタート。

「ミッキー・マウス」「シリー・シンフォニー」
のフィルムを借りて、一コマ一コマを克明に分析研究し、
映画の本質を学ばれたそうです。


映画の助監督に


そして、市川さんは、1936年には、
脚本・作画・撮影・編集をすべて一人で行った、

6分の短編アニメ映画「新説カチカチ山」
を発表されるも、ほどなくして漫画部は閉鎖。

その後は、映画の助監督に転身され、
伊丹万作監督、阿部豊監督らに師事されるのですが、

今度は、京都撮影所自体が閉鎖してしまい、
東京撮影所に転勤されることに。

また、戦争などの影響があったためか、
1945年には、実写作品ではなく、
人形劇「娘道成寺」を制作されるのですが、
それさえも、お蔵入りしてしまったのだそうです。

(市川さんは健康を害していた為、
 戦争には招集されなかったそうです)




映画監督として


そんな市川さんは、
戦後は実写の助監督に戻られると、
1948年「花ひらく」で映画監督デビュー。

この時期、東宝争議(東宝で発生した労働争議)により、
東宝から新しく設立された、新東宝撮影所(東宝が配給)に、
市川さんは移られているのですが、

争議沈静後の1951年には、
東宝が再び映画制作を開始したことから、
東宝に復帰され、

1951年「結婚行進曲」
     「盗まれた恋」

1953年「プーサン」
1954年「億万長者」

などの作品を発表。
話題となっています。


「ビルマの竪琴」で名監督の仲間入り


そして、1955年には、日活に移籍し、
「ビルマの竪琴」を発表すると、
一躍、名監督の仲間入りを果たされ、


「ビルマの竪琴」より。

以降、

1956年「日本橋」
1958年「炎上」
1959年「鍵」
     「野火」

1960年「弟」
     「ぼんち」



「野火」より。ミッキーカーチスさんと船越英二さん。

1961年「黒い十人の女」
1962年「破戒」
     「私は二歳」
     「太平洋ひとりぼっち」

1963年「雪之丞変化」


「雪之丞変化」より。若尾文子さんと二代目中村鴈治郎さん

など、次々と話題作を発表し、
映画監督としての地位を確立していかれたのでした。


テレビ業界に進出


また、1950年代後半になると、
テレビ放送の開始で、
映画界に陰りが見え始めるのですが、

市川さんは、テレビに新しい可能性を見出し、
1959年、いち早くテレビ業界に進出。

通常であれば、映画監督がテレビ業界に進出すると、
フィルム撮りのテレビ映画やコマーシャル・フィルムに、
留まることが多かったのですが、

市川さんは、そのほかにも、
生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマのほか、

当時はまだ、実験的だった、
ハイビジョンを使ったカメラで、
ドラマ制作を手がけられるなど、

テレビ業界においても、
先駆的な役割を果たされ、

1972年には、テレビドラマ、
「木枯し紋次郎シリーズ」が高視聴率を記録。


「木枯し紋次郎」より。紋次郎に扮する中村敦夫さん

この成功で、市川さんは、
「崑プロダクション」を設立されたのでした。


金田一耕助シリーズで映画界にカムバック


そして、1976年には、なかなか、
ヒットを出すことができずにいた映画でも、

「悪魔の手毬唄」「犬神家の一族」など、
金田一耕助シリーズを手がけられると、

原作者の横溝正史ブームを、
巻き起こすほどの大ヒットを記録。

映画界の第一線に、
カムバックを果たされたのでした。

市川さんは、その後も、

1980年「古都」
1981年「幸福」
1983年「細雪」
1986年「鹿鳴館」
1994年「四十七人の刺客」
2000年「どら平太」

など、話題作を多数を発表され、
2008年、「肺炎」のため、
92歳で他界されています。


2006年版の「犬神家の一族」の会見より。
(左から)深田恭子さん、石坂浩二さん、三谷幸喜さん、市川崑監督。



人柄は?


ところで、巨匠、市川崑とは、
どんな方だったのでしょうか。

調べてみると、市川さんは、
大変なヘビースモーカーで、

「チェリー」「キャメル」のどちらかを、
一日100本は欠かさず吸っており、


「チェリー」と「キャメル」

さらに、大の肉好きで、
「金田一耕助シリーズ」の金田一役で、
出演されれていた石坂浩二さんの話によると、

ある日、牛丼を食べている市川さんを、
石坂さんが注意したところ、

「こんな年になってそう食生活なんて変えられないよ」

と笑っておられたのだとか。

実は、市川さんのお母さんは、
広島で被爆しながらも90歳まで生き、

お姉さんにいたっては、
100歳を超える大往生だったとのことで、

「ニコチンくらいたいしたものではない」

と公言されていたのも、説得力がありますね♪

好きなタバコを吸って、
好きなお肉を食べ、
好きな映画を撮る、

遺伝的なものもあるかもしれませんが、これが市川さんの、
健康で長生きの秘訣だったのかもしれませんね。

(ただ、晩年の5~6年は、吉永小百合さんのアドバイスもあり、
 健康に気を遣い禁煙されていたようです。)



さて、いかがでしたでしょうか?

日本が、まだアニメ制作が盛んではなかった時代に、
アニメーターとして出発された市川さんですが、

もし、その当時に、今のような技術があったのなら、
市川さんはどのようなアニメを制作されていたのでしょう。

ミッキーマウスをこよなく愛し、
ミッキーマウスの時計やスリッパを、
愛用していたという噂や、

石坂さんや吉永さんのエピソードからも、
とても素直でかわいらしい一面があるので、

きっと、かわいらしい作品を、
つくられていたことでしょうね。

この機会に、市川さんの作品を、
観てみられてはいかがでしょう♪



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