1955年、小学5年生の時、「あすなろ物語」で映画デビューされた、山内賢(やまうち けん)さん。1960年代には青春スターとして人気を博し、和泉雅子さんとのデュエット曲「二人の銀座」が大ヒットするなど、歌手としても成功を収められ、その後、映画産業が衰退すると、テレビドラマほか、「いい旅・夢気分」の番組レポーターなど幅広く活動されるも、2011年に他界されています。


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プロフィール!

山内さんは、
1943年12月9日生まれ、
東京都のご出身、

身長は170センチ、

血液型はA型、

本名は、
藤瀬賢晁(ふじせ のりあき)、

お兄さんには、
俳優の久保明さんがいらっしゃいます。

俳優、バンドマンとして

山内さんは、1955年、
「あすなろ物語」の主演を務められた、
お兄さんで俳優の久保明さんの、
少年時代を演じられ、映画デビュー。

以降、「久保賢」の芸名で、
子役として、東宝映画に出演されるのですが、

「あすなろ物語」より。岡田茉莉子さんと山内さん。

1962年、高校卒業と同時に、
日活と専属契約を結ばれると、
「山内賢」に改名。

映画「雲に向かって起つ」で、
本格的に俳優活動をスタートされています。

その一方で、同年、
日活の若手俳優が集まって結成された、
バンド「ヤング・アンド・フレッシュ」の、
メインメンバーとしても活動。

山内さんとヤング&フレッシュ

アルバム「歌う日活スター・クリスマス・パーティー」の伴奏と、
インストゥルメンタル曲演奏でデビューを果たされています。

和泉雅子と二人の銀座が大ヒット!

その後は、

1962年「若くて、悪くて、凄いこいつら」
     「若者に夢あり」

1963年「交換日記」
     「悪太郎」
     「光る海」

1965年「悪太郎伝 悪い星の下でも」

「悪太郎伝 悪い星の下でも」より。和泉雅子さんと山内さん。

などの映画で、和泉雅子さんと共演し、
日活の黄金期を支える青春スターとして、
一躍、スターダムにのし上がると、

エレキブームが到来したこともあり、
「ヤング・アンド・フレッシュ」の活動を再開。
バンドとして映画にも出演されています。

また、1966年には、
和泉さんとのデュエット曲「二人の銀座」が、
累計売上100万枚を超える大ヒットを記録。

「二人の銀座」

続く、1967年にも、同じく、
和泉さんとのデュエット曲「東京ナイト」がヒットし、
歌手としても成功を収められたのでした。

「東京ナイト」

日活を退社

しかし、1966年頃になると、
日本映画界が斜陽期に差し掛かったこともあり、

山内さんは、歌手活動に専念するべく、
日活を退社するのですが、歌手やバンド活動では、
商業的に成功を収めることはできず、

その後は、テレビドラマや、
バラエティの司会などをされるのですが、
いずれも、パッとせず・・・

「あばれはっちゃくシリーズ」で人気に

そんな山内さんでしたが、1979年~1985年、
子ども向けテレビドラマ「あばれはっちゃくシリーズ」で、

主人公の少年、桜間長太郎の、
担任の先生を演じられると、
お茶の間の人気者に。

「あばれはっちゃく」より。先生演じる山内さんと、
桜間長太郎演じる吉田友紀さん。

そして、1997年には、NHK「趣味講座」の、
「中高年のための登山入門~日本百名山をめざす」に出演し、

中高年登山者を中心に、
登山ブームを巻き起こされるなど、
再ブレイクを果たされたのでした。

ガンが発覚

しかし、2003年夏に、
右肺にガンがあることが発覚し手術。

その2年後には、
食道と左肺に転移し、再び出術。

そして、2007年には、またしても、
ガンが再発し、闘病生活を続けることに。

ただ、同年、日活出身の俳優たちの集まり「俳優倶楽部」と、
スタッフたちの集まり「旧友会」の合同パーティには出席され、

翌年2008年には、和泉雅子さんと、
約40年ぶりのデュエット新曲「おとなの銀座」と、
「二人の銀座」を含む、往年のヒット曲を新たに録音した、
アルバムをリリース。

「おとなの銀座/東京ナイト」

さらに、2009年には、テレビ番組の企画で、
「あばれはっちゃくシリーズ」の共演者たちと、
約30年ぶりに再会を果たされるなど、
精力的に活動されていたのですが・・・

死去

2011年9月13日、
急な発熱で、都内の病院に入院されると、

「みんなに感謝」

と話されたのが最後の言葉となり、

その2日後、奥さんと2人の息子さんに見守られながら、
息を引き取られたのでした。

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告別式

ちなみに、山内さんの告別式には、
日活時代の俳優仲間であった、吉永小百合さん、
舟木一夫さん、和泉雅子さんら、約200名が参列。

和泉さんは、

6年前に肺がんの手術をする時、
「マコちゃん今からする」と、
賢ちゃんから電話もらったよね。

「よかったじゃない。肺がんボーイ。早くいってらっしゃい」
と言ったんだよね。

ボチボチ年金をもらうころに、
CDを出そうということで出したよね。

一つ心残りがあるなら、私の力不足で、
賢ちゃんを紅白(NHK紅白歌合戦)に、
出すことができなかったこと。

あの世にはいっぱい先輩がいるから、賢ちゃんが幹事をして、
私が逝った時には、「二人の銀座」を歌おうよ。
また会う日までバイバイ。

と、弔辞を読まれたのでした。

さて、いかがでしたでしょうか?

映画、歌手、テレビドラマ、
リポーターで、何度もブレイクし、

ある世代の人には、日活の青春スター、
ある世代の人には、「あばれはっちゃく」シリーズの先生役、
と、幅広い世代の人の心に印象を残した山内さんですが、

それは、私達、作品を見るものだけではなく、
共に演じてこられた俳優仲間たちにとっても、
そうだったようで、

告別式には日活時代の俳優仲間を中心に、
200名もの人々が参列。

山内さんの、最後の言葉が、
「みんなに感謝」だったことも、
そのお人柄を表していますね。

今頃は天国で、
大好きな歌を歌われているのでしょうか。

ご冥福をお祈り致します。

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