「渡る世間は鬼ばかり」で野田弥生役を演じ、お茶の間の人気者となると、その後も、長きに渡って、テレビドラマや舞台で活躍されている、長山藍子(ながやま あいこ)さん。今回は、そんな長山さんの壮絶な幼少期についてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

長山さんは、1941年6月21日生まれ、
中国内蒙古自治区フフホト市生まれ(静岡県三島市育ち)、

身長159センチ、
体重50キロ、

血液型はO型、

出身高校は、
成蹊小学校・中学校
⇒静岡県立三島北高等学校卒業

趣味は、
読書、音楽観賞、陶磁器・骨董品収集、家庭菜園、山菜採り、写真、旅行、

ちなみに、「長山藍子」は本名ですが、結婚後は、「武正藍子(たけまさ あいこ)」となられています。

父親の赴任地である中国内モンゴル・フフホトで誕生

長山さんは、新聞記者(同盟通信社)だったお父さんと雑誌(日本評論)の記者だったお母さんのもと、お父さんの赴任地だった中国内モンゴル・フフホトで誕生すると、幼少期を、東北部の新京(現在の長春)で過ごされたそうですが、

4歳の時には、ソ連軍が侵攻してきたため、女性と子どもだけはより安全な所へと、北朝鮮へと疎開することに。そして、「通信社疎開家族団」の一員として、お母さんと弟とともに出発したそうですが、

北朝鮮の鎮南浦(ナムポ)に着いた翌日に終戦したそうで、終戦を境に状況が変わってしまい、長山さんたちは他の家族と共に足止めを食らってしまいます。

仕方なく、長山さんたちは、市役所の建物に避難し、1年あまり暮らすことになったそうですが、市役所のお兄さんたちは、朝鮮民謡のアリランを教えてくれるなど、長山さんにとても優しくしてくれたのだそうです。

(長山さんは、今でもアリランを歌うことができるそうです)

疎開先の北朝鮮では厳しい生活を強いられていた

ただ、やがて、ソ連軍が中国から南進してくると、女性を求めて日本人の住む市役所の建物に押し入って来たことから、夜は、子どもたちは押入れの中、お母さんたちは必死で部屋のドアを押さえなければならなかったそうです。

また、食べるものもなく、物乞いをすることも多々あったそうですが、日本兵のためのお米がトラックで届くと、わざと袋を少し破いて、お米をこぼしてくれたそうで、その日だけは、こぼれたお米をかき集めて、おにぎりを食べることが出来たのだそうです。

ちなみに、お母さんたちがそのこぼれたお米をかき集めて作ってくれたおにぎりは、押入れにずらっと並べられたそうですが、まずは子どもたちから食べなさいと言ってもらったそうで、

長山さんは、その時のことを、

あのつやつやと輝いていたおにぎりの白さは一生忘れないと思います。

と、語っておられます。

帰国のため南北朝鮮を分ける38度線を目指す

その後、長山さんが5歳の時、ようやく帰国することになったそうで、南北朝鮮を分ける38度線を目指して、深夜の農道を歩いたそうですが、遠くに民家の明かりがぽつんと見えたそうで、

(長山さんは、赤ちゃんだった弟を背負ったお母さんに、手を引かれていたそうです)

幼い長山さんにとって、真っ暗な夜道は怖いものだったそうですが、その光景は、美しくもあり、

ああ、あったかそうだなあ。きれいだなあ

と、思われたそうです。

そして、やっとの思いで港へ着き、佐世保へと向かう引き揚げ船に乗ることができたのですが・・・

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引き揚げ船の中で友達が他界

せっかく引き揚げ船に乗ることができたにもかかわらず、船内の環境が厳しかったことから友達が他界。その子の遺体はみかん箱に入れられて、海に流されたそうで、その流れ去って行くみかん箱を、長山さんは、頬づえをつきながらずっと眺めたそうです。

また、船内の生活で困ったのは、トイレだったそうで、船底から縄梯子をつたって甲板に登ると、四角い穴が開いていて、それをトイレとして使っていたそうですが、

真下は、クラゲがうようよといる海で、手すりもなく、落ちたらまず助からないことから、用を足すのも命がけだったそうです。

(そのため、心配したお母さんが、用を足している長山さんの服の背中をしっかりつかみ、「藍子ちゃん、うんちが済んだら、立つのよっ!」と、言ったそうです)

そんな、引き揚げ船での旅を続け、ようやく、佐世保港に到着すると、一足先に帰国していたお父さんが出迎えてくれ、長山さんを抱きかかえてくれたそうですが、

差し出されたお父さんの手のひらには、色とりどりのお星さま(金平糖)が乗っていたそうで、その美しさ、口に入れた時の味は、今でも忘れられないそうです。

「長山藍子は高2の時に「俳優座」の俳優養成所に合格していた!」に続く

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