タモリは保険の外交員だった!ボーリング場で支配人も!山下洋輔?

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大学中退後、保険会社やボーリング場の支配人など職を転々とされ、どこの職場でも強い印象を残された、タモリさん。そんなある時、友人を訪ねたホテルで、たまたま見たジャズピアニスト、山下洋輔さんのバンドの打ち上げに乱入されたことで、山下さんと運命的な出会いを果たし、それをきっかけに上京されたのでした。




「~幼少期に右目を失明~トランペット奏者~司会に転向~」の続き

保険の外交官だった!


大学を学費未納のため、
除籍処分となってしまったタモリさんは、

その後も、「モダン・ジャズ研究会」の、
マネージャーは続けられていたことから、
かなりの収入を得ていたようです。

しかし、ほどなくして、親族に、
無理やり地元福岡に戻されると、
「朝日生命」の営業職に。

タモリさんご本人は、

「ベラベラしゃべるから信用されずダメだった」

と、おっしゃっていますが、

当時、上司だった方の話では、保険の外交員として、
「優秀者招待旅行コンクール」によく入賞していた、
と、明かされているので、かなり優秀だったようですね。

また、社員のバス旅行では、
ニセ中国語で進行役を務められていたそうで、
現在のタモリさんの原点が伺えます♪

ボーリング場の支配人ほか職を転々


そして、保険会社を3年で退職されると、
早稲田大学の先輩である、高山博光さん(現・福岡市議会議員)
が経営されていた旅行会社「日田観光会館」に転職し、
傘下のボーリング場の支配人に配属。

ある時、ピンを動かす機械から油漏れが起きて、
みるみるうちに油が場内に溜まり、
雑巾やトイレットペーパーでは間に合わない状態になった折には、

機転をきかせ、女性アルバイトに、
生理用ナプキンを大量に買いに行かせ、
なんとかその場をしのいだというエピソードがありました。

また、ボーリングブームが去ると、
今度は、フルーツパーラー「サンフレッシュ」の、
初代支配人になられたそうで、

ここでも、タモリさんは、
「ミックスジュース」「ミィジュー」
「ブルーマウンテン」「ブルマー」

などと、お客さんの注文を、
逆さまに言ったり、短縮して言われていたそうで、

「おかしなマスターがいる」

と、評判になり、注目を集められたといいます。

そして、その後も、タモリさんは、
喫茶店のマスター、ガードマン、
絵画のヌードモデル、蛇使い(笑)など、
様々な職を転々とされたのでした。

山下洋輔との出会い


そんなタモリさんは、1972年、
博多で渡辺貞夫さんのコンサートが開かれた際、

コンサートスタッフに、
大学時代のジャズ仲間がいたことから、

コンサート終了後、
その友人が泊まっていたホテルに会いに行かれます。

そして、友人と深夜まで飲み、午前2時頃、
帰宅しようと部屋を出て、廊下を歩いていると、

どこからか、どんちゃん騒ぎと、
笑い声が聞こえて来たのだとか。

それで、半開きになっていた、
それらしい部屋を見つけ、ドアの隙間からそっと覗くと、

籐椅子の底が抜けたものををかぶった虚無僧が、
歌舞伎や狂言の真似をしているのが見えたそうで、

それを見たタモリさんは、

俺の感覚と同じじゃないか。
これは俺を呼んでいる!

と、思われたそうで、
なんと、そのどんちゃん騒ぎに乱入。

実は、渡辺さんのコンサートに同行していた、
ジャズピアニストの山下洋輔さんと、
そのメンバーだったのですが、

タモリさんは、サックス奏者、中村誠一さんの、
かぶりものを取り上げ、一緒に踊り始めたのでした。

すると、中村さんから、デタラメの朝鮮語で、
その無礼を咎(とが)められるのですが、

タモリさんは、それよりももっと流暢な、
デタラメの朝鮮語で切り返され、

その後、タモリさんと中村さんは、
インチキ外国語の応酬に発展。

こうして、このどんちゃん騒ぎは、
夜明けまで続いたそうで、

タモリさんは、その日、
会社があったことから帰ろうとすると、

山下さんから、

「ちょっと待った。あんたは誰なんだ」

と、尋ねられるも、

「私は森田と申します」

とだけ名乗り、帰宅されたのでした。


(左から)山下洋輔さん、赤塚不二夫さん、タモリさん(1980年頃)

(ちなみに、後に、山下さんは、タモリさんが表情をつけて、
 デタラメなアフリカ語を話し始めた際には、
 呼吸困難になるほど笑ったとおっしゃっています♪)

「タモリ探し」のお陰で上京?


そして、その半年後、タモリさんは、
常連だった、博多で一番古いジャズ喫茶「COMBO」で、
山下さんと再会されるのですが、

なんと、山下さんは、ずっと、
タモリさんを探されていたそうで、

博多の一番古いジャズ喫茶なら、

「博多にいるジャズ好きのモリタという男」

のことが分かるのでは、と思われ、
「COMBO」に来られ、再会となったのだとか。

(この話にはもう一説あり、当時タモリさんは喫茶店でマスターをしており、
 山下さんは博多のジャズ喫茶を片っ端に探したところ、
 とあるジャス喫茶からの「喫茶店の変人マスターでは」との情報から、
 タモリさんを探し当てた、とも言われています。)

その後、1975年6月、タモリさんは、
山下さんらのカンパによって上京。

というのも、山下さんは、行きつけだった、
新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、
ことあるごとにタモリさんの話をされており、

「山下がそんなに面白いというのなら一度見てみたい」

と、常連客一同、タモリさんを上京させる、
機運が高まっていたそうで、

「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」
が結成されていたというのです♪

「赤塚不二夫に囲われていた?黒柳徹子の番組で密室芸を披露!」に続く



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