1979年、「CBS/EPIC」移籍後初のソロアルバム「Off The Wall」をリリースされると、これまでのアイドル的なイメージを払拭し、アーティストしての成功も掴まれた、マイケル・ジャクソンさん。続くアルバム「Thriller」では、エンターテイメント性に富む、ホラー映画風のミュージックビデオが大きな話題となり、2015年時点で、約1億5千万枚の世界売上を記録。ギネスに「世界史上最高のセールスを記録したアルバム」として認定されています。


「~兄弟ユニット・ジャクソンブラザーズ~ジャクソン5~」の続き

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全米チャートで37週連続1位

そんなマイケルさんは、1978年19歳の時、
ミュージカル映画「The Wiz」で、
映画デビューを果たされるのですが、

この映画の音楽監督、
クインシー・ジョーンズさんに、

「僕にはプロデューサーが必要なんです」

と、おっしゃったところ、

クインシーさんは、もともと、
フランク・シナトラさんのために用意していた曲で、

大人の男女の関係を歌った「She’s Out of My Life」を、
まだ恋愛経験のないマイケルさんに歌わせたら、
面白いのではないか、と思いたち、

「君と一緒にこの歌をやりたいんだが」

と、返事をされたことから、
お二人はともに仕事をすることになります。

ただ、マイケルさんは、感極まってか、
何度テイク(1回分の録音)をとっても、

毎回レコーディングの最後に泣き出してしまい、
結局、そのまま涙声を収録することになったそうです。

「CBS/EPIC」移籍後初のアルバム「Off The Wall」をリリース

こうして、マイケルさんは、翌年の1979年、
「CBS/EPIC」移籍後初のアルバム「Off The Wall」を、
クインシーさんプロデュースでリリースされると、

ビルボード・アルバムチャートで最高3位を記録する大ヒット。
(2014年時点で全米800万枚の売上)

「Off The Wall」

また、このアルバムからシングルカットされた4曲が、
全米チャートトップ10に入り、
うち2曲が1位を獲得したのでした。

ちなみに、このアルバムでは、マイケルさんの、
初めての自作曲やアイデアも導入されており、

このアルバムは、本当の意味で、
マイケルさんのファーストアルバムとなったのでした。

アルバム「Thriller」が大ヒット!

そして、1982年12月、同じく、
クインシーさんプロデュースのアルバム、
「Thriller」をリリースされると、

なんと、全米チャートで、
37週連続1位を獲得。

「Thriller」

さらに、このアルバムの収録曲、

「Billie Jean」(1983年1月シングルカット)
「Beat It」(1983年2月シングルカット)
「Thriller」(1983年11月シングルカット)



は、ミュージックビデオも制作されているのですが、
いずれも、従来のミュージックビデオの概念を、
覆すような作品となっており、

特に「Thriller」は、約14分にも及ぶ、
ホラー映画風のショートフィルムで、

マイケルさん自身が狼男やゾンビに扮し、
歌い踊る姿が絶大な支持を得て、
演技やダンスがともに高く評価されたのでした。

(このアルバムは、2015年時点で、
 全世界1億5千万枚以上のセールスを記録。
 現在もなお、記録を更新し続けています。)

「ムーン・ウォーク」がブームに

ところで、マイケルさんは、1983年5月、
「モータウン25周年記念コンサート」
(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)に出演された際、
「Billie Jean」の間奏で「ムーン・ウォーク」を初披露。

この「ムーン・ウォーク」は、ストリートダンスやブレイクダンスで、
足を交互に滑らし、前に歩いているように見せながら、
後ろに滑る技法「back slide(バックスライド)」の動きに、

音楽に合わせて、その場で、
回転するような動作を付け加えたもので、

これが重力に反するような動きであることから、
マイケルさんが「ムーン・ウォーク」と、
名付けたものなのですが、

その後、マイケルさんが、数多くのPVやツアーで、
「ムーンウォーク」を披露したことで、
世界的に大ブームとなりました。

ペプシコーラCM撮影で大やけど

そんな絶好調のマイケルさんでしたが、
1984年1月、「ペプシ・コーラ」のCMの撮影中、
演出で使われていた花火が髪の毛に燃え移り、
大やけどを負ってしまいます。

というのも、当初、マイケルさんは、
花火が燃え移っていることに気がつかず、
パフォーマンスを続けられており、

頭上が熱いのは、

「クリーグライトが放射する熱だろう」

と、思われていたそうで、

突然、熱が鋭い痛みに変わったことで、
ようやく、燃え移っていることに気づかれたのでした。

(この火傷の治療は長期に渡るのですが、それだけではなく、
 このことがきっかけで、マイケルさんは、以降、
 鎮痛剤に依存するようになったとも言われています。)

ペプシを訴えず示談~新しい火傷病棟を建設

ちなみに、この事故に対する、
ペプシ側の対応はひどいもので、

こともあろうか、マイケルさんに、
罪をなすりつけようとしたそうですが、

マイケルさんは訴訟を起こさず、
現金で150万ドル(約1.7億円)の支払いを、
ペプシ側に要求しただけという、
非常に寛大な対応をされています。

(その後、マイケルさんは、自身が入院した、
 ブロットマン医療センターの火傷病棟とは別に、
 新しい火傷病棟を建設されています。)

マイケルさんは、後に、自伝で、
事故が起こった時の様子を、

照明弾は、両脇とも、僕の頭から、
たったの2フィート(約60センチ)しか離れていませんでした。
完全に、安全規則を無視していたのです。

両脇2フィートのところでマグネシウムが爆発している真ん中に、
僕は立っていることになっていたわけなんですからね。

と、綴っておられます。

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「ジャクソンズ」脱退

さて、マイケルさんは、ソロデビューして以来ずっと、
「ジャクソンズ」と両立されていたのですが、

のんびりと優雅な生活を楽しんでいる兄弟たちに対し、
次第に、ストレスを溜めるようになっていきます。

そして、「Thriller」以降は、
兄弟たちと距離をおくようになっていき、

ついに、1984年12月、
お母さんのたっての願いである、

「兄弟揃ってライヴをして欲しい」

との願いを、渋々聞き入れ、
「Victory Tour」をされた後、
「ジャクソンズ」を脱退されたのでした。

「Bad、Black Or Whiteでキング・オブ・ポップへ!」に続く

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