中学生の時から文学・演劇活動を始め、慶応大学在学中に「新演劇研究会」を結成された、芥川比呂志(あくたがわ ひろし)さん。1947年には、「文学座」で主演を務めた舞台「ハムレット」が絶賛され、「貴公子ハムレット」と呼ばれます。また、1953年には、盟友で劇作家の加藤道夫さんが設立した劇団に「劇団四季」と名付けられたことでも有名です。


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生まれは?身長は?

芥川さんは、1920年3月30日生まれ、
東京府東京市滝野川区(現東京都北区)田端のご出身で、

身長171センチ、

学歴は、東京高等師範学校附属小学校・中学校・高等学校
(現在の筑波大学附属小学校・中学校・高等学校)
~慶應義塾文学部仏文科、

だそうです。

父親は芥川龍之介

芥川さんのお父さんは、
「羅生門」「鼻」「蜘蛛の糸」などでおなじみの、
作家、芥川龍之介。

芥川龍之介といえば、どこか陰鬱な印象がある作家ですが、
息子である比呂志さんは、お父さんとの思い出について、

エッセイ「ハムレット役者」「父のこと」で、
綴っておられますので、ご紹介します。

「お父さん、絵を描いて」
「絵か。何の絵」
「おばけの絵」
「恐いぞ、おばけは。いいかい」
「いや、恐くないおばけがいい」

そんな問答を交したのを憶えています。笑いながら、
それでも父は私の持って行った帳面へ鉛筆で、
恐くないおばけを描いてくれました。

紙巻きタバコに翅(はね)がはえて、
頭から煙を上げながら飛んでいる絵です。
なるほど、ちっとも恐くないが、一向におばけらしい気がしません。

「なあに、これ」
「これはタバコとんぼ。タバコに翅がはえて、とんぼになっちまったの」
「ふうん……もっと描いて」

今度は花を描く。葉と、茎を描いて、それへ、
やはり虫のような手足を描き添えます。

「これは」
「菖蒲ばったって言うおばけ」

そう言われればおばけには違いありません。

「ふうん・・・菖蒲に足がはえて、跳ねてるのね」
「そうじゃないんだ。ばったが跳ねてるうちに、急に菖蒲になっちまったの」
「ふうん・・・」

何が何だかわけが分らなくなり、気味が悪くなって、
おばけの絵をねだるのはそれでおしまいになりました。

また、芥川龍之介の晩年のフィルム映像では、
比呂志さんや弟の多加志さん(後に戦死)と微笑む姿や、
木登りを楽しむ姿が撮影されており、
意外にも子煩悩だったことが分かります。

(ちなみに芥川さんには、もうひとり、末の弟で、
 後に音楽家となる芥川也寸志さんがおられますが、
 この時は、お昼寝されていたそうで映像には映っていません)

父親の自殺

ところが、芥川龍之介は、
1927年、比呂志さんが7歳の時、

「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」

との言葉を遺し、自殺してしまいます。

比呂志さんは、その後の暮らしについて、

20代の終わりに寡婦となった母は、
遺された3人の男の子の養育で、ずいぶん苦労もしたことと思う。

昭和20年の4月の13日に、永年住みなれた田端の家も焼かれてしまい、後になって分かった事だが、まん中の弟も同じその日、ビルマで戦死をした。

母はあまり愚痴っぽいほうではない。だからというわけではないが、
僕は芝居、弟の也寸志(やすし)は音楽など、それぞれ好きな道を歩ませてくれたことは、何より有り難いと感謝している。

と、語っておられます。

中学生の時から文才を発揮

さて、芥川(比呂志)さんは、中学生の時から、
シング(アイルランドの作家)や岸田國士の戯曲を読み、

15歳の時には、戯曲「お察しください(A Comedy)」を、
中学校の校友会誌「桐陰会雑誌」に発表されるなど、
早くもお父さん譲りの文才を発揮。

学芸会では、「ヴェニスの商人」や、
武者小路実篤のお芝居を演じられています。

そして、その後、慶応大学に進学されると、大学在学中に、
加藤道夫さん、長岡輝子さん、原田義人さん、矢代静一さんらと、
「新演劇研究会」を結成し、学生演劇活動を展開。

その一方で、同級生の鈴木亨さん主宰の詩誌「山の樹」に、
「畔柳茂夫」「沖廣一郎」というペンネームで、
詩や翻訳を発表されるなど、作家としても活動されています。

戦争で陸軍に入隊~チェーホフの「熊」で演劇活動再開

そんな中、太平洋戦争が勃発。

芥川さんは、大学を繰り上げ卒業し、
前橋陸軍予備士官学校(赤城隊)に入校。
士官学校卒業後は、陸軍に入隊されています。

そして、1945年に日本が敗戦すると無事帰還し、
神奈川県藤沢市鵠沼にある母の実家で暮らす、
妻や子どもの元に復員。

翌年の1946年には、鵠沼で、
文化的な活動をされていた林達夫さんらと交流し、

林さん主宰の市民向け教養講座「鵠沼夏期自由大学」で、
加藤道夫さん・治子さんご夫婦とともに、
チェーホフの「熊」を演じられるなど、
演劇活動を再開されています。

「ハムレット」が絶賛される

そして、1947年、芥川さんは、
長岡輝子さん、加藤道夫さん・治子さんご夫婦らとともに、
「麦の会」を結成。

1949年には、「麦の会」ごと「文学座」に合流し、
以降、「文学座」の中心的な俳優として活躍されています。

特に、1955年に主演を務めた「ハムレット」は絶賛され、
芥川さんは、「貴公子ハムレット」と呼ばれるようになり、
いまだに伝説として演劇史で語り継がれています。

「ハムレット」より。

映画「煙突の見える場所」で男優助演賞を受賞

また、芥川さんは、舞台だけではなく、
映画やテレビドラマにも多数出演され、

1953年には、映画「煙突の見える場所」で、
「第8回毎日映画コンクール」「男優助演賞」を受賞。

ちなみに、同映画で音楽を担当された、
弟の芥川也寸志さんも「音楽賞」を受賞され、
ご兄弟そろってのW受賞となっています♪

「煙突の見える場所」より。高峰秀子さんと芥川さん。

「文学座」脱退~「劇団雲」でリーダーに

そして、1963年には、「文学座」を脱退し、
かつて「ハムレット」の演出を手がけた、
福田恆存を理事長とする財団法人「現代演劇協会」を設立すると、
協会附属の「劇団雲」でリーダーとして活動。

また、芥川さんは、
演出家としての才能も発揮され、

1974年には、
「スカパンの悪だくみ」の演出で、芸術選奨文部大臣賞、
泉鏡花の戯曲「海神別荘」の演出で、文化庁芸術祭優秀賞、

を受賞されるなど、
演出家としても大成されています。

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死因は?

その後、芥川さんは、
福田さんと劇団の運営方針を巡って対立すると、

1975年には、「劇団雲」を離脱し、
「演劇集団 円」を創立して代表に就任。

しかし、若い頃からの持病である、
「肺結核」が悪化して、入退院を繰り返し、

1981年、61歳の時、療養中だった、
目黒区内の自宅にて亡くなったのでした。

さて、いかがでしたでしょうか?

文学だけではなく、演者、演出家としても、
才能を発揮された芥川さん。

お父さん譲りの芸術家肌で、芸一筋の、
気難しい性格だったと伝えられていますが、

ルックスもお父さんに似て、彫りの深い二枚目なため、
「ハムレット」が絶賛されるのも納得ですね。

一般的にはあまり知名度が浸透していない芥川さんですが、
この機会に、是非、出演作品をご覧になってはいかがでしょうか。

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