宮崎恭子の死因は?夫の仲代達矢と無名塾を設立!子どもは?妹は宮崎総子!

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1950年に「俳優座付属養成所」に入所し女優として活動されるも、俳優の仲代達矢さんと結婚後は、女優を引退し、脚本や演出に携わられた、宮崎恭子(みやざき やすこ)さん。1975年には、仲代さんとともに、「無名塾」を設立し、若手俳優の育成に力を入れられました。




プロフィール!


宮崎さんは、1931年5月15日生まれ、
長崎県長崎市のご出身です。

本名は、
仲代恭子(旧姓・宮崎恭子)、

妹は、元フジテレビアナウンサーで、
ニュースキャスターの、
宮崎総子(みやざき ふさこ)さん、

母方の祖父は、
第九代呉市長の勝田登一さん、

だそうです。


原爆、大洪水の体験を経て


宮崎さんは、裁判官だったお父さんの赴任先の、
長崎県長崎市で生まれ、4歳まで育つのですが、

その後、お父さんの転任に伴い、
福岡市に引っ越されると、

小学3年生の時に、大分に引っ越し、
小学4年生の時には、再び福岡に戻り、
小学校卒業までを福岡で過ごされたそうです。

そして、中学生になると(1944年)、
お父さんが裁判官を辞め、弁護士になったため、
東京に移られるのですが、

1945年には、東京大空襲により、
お母さんと妹と、広島県の呉市にあった、
伯父さんの家に疎開されたのでした。

(女子供のみの疎開で、成人男性であるお父さんは、
 東京に残られています。)

しかし、同年8月には、広島に原爆が投下され、

(宮崎さんは、きのこ雲を見たそうですが、
 被爆されたかどうかは分かりませんでした。)

さらに、翌月の9月には、
枕崎台風が呉を襲い、大洪水に。

宮崎さんの実家は、
土石流で流されてしまったのでした。

(宮崎さんも怪我を負われたそうです。)

ちなみに、宮崎さんは後に、7年かけて、
「大切な人~私の家族が見た戦争~」
という物語を出版。


大切な人

朗読劇としても上演され、
戦争の陰に隠れて伝えられることのなかった、
大洪水の体験を伝えられています。


「俳優座養成所」に入所


1945年暮れに、ようやく、
お母さんと妹さんと東京に戻られた宮崎さんは、
その後、「女子学院高等学校」に進学されると、

同高校を卒業後の1950年には、
「俳優座付属養成所」に入所。

1953年に「俳優座付属養成所」を卒業されると、
翌年の1954年には、同期だった小沢昭一さんらと、
劇団「新人会」を結成。

1957年には、同じく、小沢さんらと、
「俳優小劇場」を結成されています。

また、1956年には、
映画「森は生きている」に出演され、

その後も、NHK「バス通り裏」など、
ラジオドラマやテレビドラマに出演されていたようです。


仲代達矢と結婚


そんな宮崎さんのプライベートですが、1957年、
「俳優座付属養成所」の後輩だった仲代達矢さんと、
結婚されています。

そして、結婚後は、仲代さんの、
俳優としての才能をサポートするために、
女優業を引退。

1965年頃からは、「隆 巴(りゅう ともえ)」のペンネームで、
「釣忍」などの脚本を書き始めておられます。


「無名塾」を設立


また、1975年には、自宅の稽古場に集う若い俳優たちに、
演出の稽古のつもりで指導していたのをきっかけに、
ご主人の仲代さんとともに「無名塾」を設立。

若い俳優を育てたい、という思いから、
1977年からは公募もスタートされています。

そして、宮崎さんが主体で、
「無名塾」の運営、脚本、演出を担当され、
本格的に舞台づくりに取り組まれたのでした。


子どもは?


ところで、宮崎さんと仲代さんとの間には、
お子さんはいらっしゃらなかったのですが、

宮崎さんの妹、宮崎総子さんの、
娘さんである奈緒さんを養女に迎えられています。

奈緒さんは、現在、本名仲代奈緒で、
女優や歌手として活動されており、

2011年には、「ねねぷろじぇくと」を立ち上げ、
自ら、企画、制作、演出を手がけられています。


主な作品


それではここで、宮崎さんの、
主な作品をご紹介しましょう。

演出では、

「令嬢ジュリー」「どん底」「ソルネス」「マクベス」
「肝っ玉おっ母と子供たち」「リチャード三世」「ソルネス」「マクベス」

脚本では、

「いのちぼうにふろう」(映画)、
「釣忍」「三十ふり袖」「砂の器」(テレビドラマ)

戯曲では

「渋谷怪談」「ルパン」

ほか、数多くの作品を手がけられています。


死因は?


こうして、長きに渡り、演劇界で、
精力的に活動されていた宮崎さんですが、

1995年夏、無名塾の全国公演中に体調不良を訴えられ、
病院で検査をしたところ、「がん」であることが判明。

その2ヶ月後には手術をされ、
手術自体は成功したのですが・・・

後に、膵臓からの転移が判明し、余命半年ということが、
ご主人の仲代さんに告げられたのでした。

宮崎さんにはこのことは伏せられていたのですが、
なんとなく自分の死を覚悟されたのか、

宮崎さんは、結婚記念日に、

「おいしい人生を有り難う」

と書いた色紙を仲代さんに手渡し、

その2ヶ月後の1996年6月、
静かに息を引き取られたのでした。


仲代達矢さまおいしい人生をありがとう―宮崎恭子画文集 (手のひらシアターミュージアム)

さて、いかがでしたでしょうか?

結婚後は仲代さんの俳優としての才能を活かすため、
そのサポートに徹し、女優を引退された宮崎さんですが、

仲代さんと二人で作り上げた「無名塾」は、
お二人にとっては、本当の子どものような、
存在だったのでしょうね。

宮崎さんが情熱を注ぎ、仲代さんが引き継いだ「無名塾」
今後、ここから、どのような名優が世に出てくるのか、
とても楽しみですね。

宮崎さんのご冥福をお祈り致します。



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