「ミス・セブンティーンコンテスト」九州地区大会で、透明感溢れる伸びやかな歌声が注目を集め、スカウトされて芸能界入りすると、1979年に「裸足の季節」でデビュー、その後、セカンドシングル「青い珊瑚礁」でブレイクされた、松田聖子(まつだ せいこ)さん。以降、次々と大ヒットを飛ばすと、「聖子ちゃんカット」が一大ブームとなり、「ぶりっ子」の代名詞になるなど、絶大な人気を集めます。


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年齢は?出身は?身長は?本名は?

聖子さんは、1962年3月10日生まれ、
福岡県久留米市荒木町のご出身です。

身長160センチ、
体重42キロ、

スリーサイズは、80-57-83、

血液型はA型、

出身高校は、
久留米信愛女学院高等学校中退⇒堀越高校卒業、

趣味は、映画鑑賞、入浴、
特技は、英会話、

本名は、蒲池法子(かまちのりこ)で、
生家は柳川城の城主だった蒲池氏第16代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男、
蒲池統安の子孫で、江戸時代は柳川藩家老格だった旧家だそうです。

「ミス・セブンティーンコンテスト」でスカウトも・・・

聖子さんは、お父さんの、

「娘を淑やかなお嬢さんに育てたい」

との意向から、キリスト教の高校に入学すると、

入学後は、キリスト教研究部に入部し、
熱心に聖書の勉強をする少女だったそうですが、

郷ひろみさんの大ファンだったことから、
やがて、歌手に憧れるようになり、

高校1年生の時、友達と遊び半分で、CBSソニーと集英社が主催する、
「ミス・セブンティーンコンテスト」に書類とテープ
(桜田淳子さんの「気まぐれヴィーナス」を録音)を送られると、
忘れた頃に、九州地区大会へ来るようにとの連絡が。

聖子さんは、両親がとても厳しかったことから、
両親に内緒で、1978年の4月、
福岡市民会館で行われた九州地区大会に出場すると、
なんと優勝。

しかし、これが両親に知られてしまい、全国大会は、
激怒したお父さんに辞退させられてしまいます。

再度スカウト

その後、聖子さんは芸能界入りを諦め、
しばらくは普通の生活をされていたのですが、

数週間後、CBSソニーのディレクターから、

「別の形でデビューしませんか」

との連絡が。

実は、このディレクターは、
九州地区大会で優勝した聖子さんの歌声を聴いて、
「この子は絶対に売れる」と確信し、連絡してきたのでした。

この連絡で、芸能界入りを諦めきれなくなった聖子さんは、
辛抱強くお父さんを説得。

そして、1年後、ようやく、

3年間一生懸命やって、だめだったら、
諦めて学校に戻るように。

との条件で、お父さんの承諾を勝ち取り、
何があっても頑張らなければと決意を固められたのでした。

「サンミュージックプロダクション」に所属

しかし、CBSソニーには、その抜群の歌唱力を認められるも、
CBSソニーから紹介された、芸能プロダクションの、
「渡辺プロダクション」は、(聖子さんの写真を見て)
O脚だったことから不採用となってしまいます。

そして、次に紹介された、
「サンミュージックプロダクション」でも、

オーディションを受けに田舎から上京した聖子さんは、
パッとしない印象を与えてしまうのですが、

面接の際、歌唱を披露されると、
幹部に注目され、なんとか契約となったそうです。

「裸足の季節」でデビュー

その後、「サンミュージックプロダクション」からは、
翌年の3月、高校を卒業してから来るように言われるのですが、

聖子さんは、卒業を待たずに、
1979年7月、高校を中退して単身上京すると、

その熱意と行動力に押された、
「サンミュージックプロダクション」の相澤社長から、

寮に住まわせてもらい、さらに、
堀越高校に転入までさせてもらいます。

そして、いよいよ、歌手デビュー(1stシングル発売)を控え、
CM出演(CMソングも)を図るのですが、

ヴィジュアル面がパっとしなかったことで、
アイスクリームのCM、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMと、
CM出演のオーディションに立て続けに落選。

最終的には、

「何とかCMソングだけでも」

との相澤社長の陳情で、
「エクボ」のCMソングタイアップにこぎつけ、

翌年の1980年2月、
「裸足の季節」でレコードデビューを果たすことに。

「裸足の季節」

テレビの歌番組出演で

ただ、CMでは、聖子さんの歌声が頻繁に流れるものの、
やはり、顔と名前の知名度が低く、

CMイベントのサイン会では、CMに出演されていた、
新人タレントの山田由紀子さんにのみ人が集まり、

聖子さんの前には誰も並ばなかったばかりか、
「あの娘は誰?」という目で見られてしまい、
とても悔しい思いをされます。

それでも、程なくテレビの歌番組などに、
聖子さんが出演されるようになると、

同年7月に発足したファンクラブの発足式には、
5000人ものファンが集まり、

「よみうりランド グリーンステージ」
で開催されたコンサートでは、
8000人のファンを動員するなど
聖子さんは着実にファンを惹きつけていったのでした。

マネージャーは不要だった?

ちなみに、聖子さんはデビュー当時、
音楽番組の舞台裏で、大道具から出ていた釘に、
衣装をひっかけてしまったことがあったそうですが、

その時、聖子さんは、
怪我がなくほっとする周囲をよそに、

「○○を呼んで!」と、所属事務所の役員の名前を、
呼び捨てにして叫んだそうで、

その後、局側は、
聖子さんと駆けつけた役員に平謝り。

それを見ていた周囲は、

「やっぱりこの子はスゴい」

と、恐れおののいたといいます。

これは、聖子さんが、自分の売り出し方を他人任せにせず、
いかにご自身でマネージメントされてきたかを表していますね。

「青い珊瑚礁」でブレイク

こうして、同年8月14日にリリースされた、
セカンドシングル「青い珊瑚礁」が、
歌番組「ザ・ベストテン」で初登場8位にランクインし、
翌月の9月に第1位を獲得すると、

「青い珊瑚礁」

続く10月リリースのサードシングル「風は秋色」も、
初のヒットチャート第1位を記録。

「風は秋色」

「第22回日本レコード大賞」では新人賞を獲得し、
「第31回NHK紅白歌合戦」にも初出場されると、

ブロマイドの年間売上でもトップになり、
聖子さんのヘアスタイル「聖子ちゃんカット」
が全国の少女たちの間で一大ブームになるなど、

聖子ちゃんカット

聖子さんは、たちまち、トップアイドルに。

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ヒットを連発

その後も、聖子さんは、

1981年1月「チェリーブラッサム」
1981年4月「夏の扉」
1981年7月「白いパラソル」
1981年10月「風立ちぬ」

1982年1月「赤いスイートピー」
1982年4月「渚のバルコニー」
1982年7月「小麦色のマーメイド」
1982年10月「野ばらのエチュード」

1983年2月「秘密の花園」
1983年4月「天国のキッス」
1983年8月「ガラスの林檎」
1983年10月「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」

1984年2月「Rock’n Rouge」
1984年8月「ピンクのモーツァルト」
1984年11月「ハートのイアリング」
1985年1月「天使のウィンク」

1985年5月「ボーイの季節」
1985年6月「DANCING SHOES」

と、立て続けにシングルをリリースすると、
すべての曲でオリコンランキング1位を記録。

こうして、聖子さんは、見事、自身をマネージメントし、
アイドル歌手として絶大な人気を誇ったのでした。

そして、プライベートでも、
その能力は遺憾なく発揮されます。

「郷ひろみ号泣破局会見の真実は?元夫の神田正輝との出会いは?」に続く

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