山田洋次監督の常連女優として数多くの作品で主演やマドンナを演じ、中でも1969年~1995年の映画「男はつらいよ」シリーズでの車寅次郎の妹・さくら役で、その人気を不動のものにされた、倍賞千恵子(ばいしょう ちえこ)さん。今回は、そんな倍賞さんの妹さんと弟さんについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

倍賞さんは、1941年6月29日生まれ、
東京都豊島区西巣鴨生まれ(東京都北区滝野川育ち)、

身長159センチ、

血液型はB型、

学歴は、
北区立滝野川第六小学校
⇒北区立紅葉中学校(現在の北区立滝野川紅葉中学校)

ちなみに、「倍賞千恵子」は本名で、愛称は「チコちゃん」なのですが、「倍賞」という珍しい姓は、秋田県鹿角郡(現在の鹿角市)十和田大湯がルーツとなっているそうで、佐竹藩に仕えた守衛が書記に抜擢され、何かの賞を受けたのが由来となっているそうです。


(後列左から)千恵子さん、弟・明さん、姉・節子さん、(前列左から)妹・美津子さん、弟・鉄夫さん。

妹は女優の倍賞美津子

倍賞さんは、5人兄弟(二男三女) の次女なのですが、妹には、女優の倍賞美津子さんがいらっしゃいます。

美津子さんは、1965年、「松竹歌劇団」に第18期生として入団後、「浅草国際劇場」を中心に歌とダンスで活動されると、1967年には、映画「純情二重奏」で、千恵子さんと異母姉妹を演じて女優デビュー。


「純情二重奏」より。千恵子さん(左)と美津子さん(右)。

その後、映画を中心に出演し、1979年には、「復讐するは我にあり」で、「第3回日本アカデミー賞優秀助演女優賞」を獲得されると、

1983年には、「陽暉楼」「楢山節考」「第7回日本アカデミー賞優秀助演女優賞」

1985年には、「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」「友よ、静かに瞑れ」「恋文」の3作で「第9回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞」を受賞されるほか、数々の賞を受賞されており、日本映画界を代表する演技派女優としての地位を確立されています。

プライベートでは、アントニオ猪木さんとの結婚&離婚も話題となりました。

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弟は日産自動車硬式野球部元監督の倍賞明

また、弟は、「日産自動車」硬式野球部元監督で、日本大学第三高等学校(日大三高)甲子園準優勝時のメンバーとして活躍した、倍賞明さんです。


倍賞明さん。

明さんは、野球の強豪校だった東京都北区立紅葉中学校(現・北区立滝野川紅葉中学校)の野球部で強打者として活躍していたところ、東京都の試合を見に訪れていた「日大三高」からスカウトされたそうで、

練習を見に来ないかと言われ、見に行ったらお昼ごはんにお寿司が出たんです。その時初めてお寿司を食べました。

それまで、遠足の時に食べるおいなりさんか海苔巻きしか食べたことがなかったので、こんないいものが毎日食べられるのかと思って入学しましたが、その時だけでしたね。

と、「日大三高」の練習場を見学させてもらい、その際、お寿司を食べさせてもらったことが決め手となり、「日大三高」に進学されると、

「日大三高」では、1962年、「センバツ高校野球」で3番打者として活躍し、準優勝。「日本大学」に進学後の1966年、4年生の時には、「日本選手権」で優勝。

大学卒業後は、社会人として「鐘紡」(現在のカネボウ)に進まれるのですが、会社の業績が悪化し、解散すると、その後は、大学の先輩がいた「日産自動車」へ移籍し、1975年、30歳の時、監督に就任されています。

その後は、東京・六本木で、「音楽と野球をこよなく愛するお店」をキャッチフレーズにした「六本木 Sound in Baisho」を経営されていたそうですが、2019年1月、74歳で、「前立腺ガン多臓器転移」のため他界されています。

ちなみに、明さんが高校野球で活躍していた1962年は、千恵子さんが、女優デビューしたばかりの頃なのですが、

当時、千恵子さんは朝日新聞のインタビューで、

いま、楽しみなことが二つあるんです。(と語り、映画で歌を歌う予定があること、そして日大三(東京)野球部3年の弟、明の活躍を挙げた)

私のカンでは、激戦の都予選で絶対優勝よ。私も甲子園へ応援に行きたいけど、仕事の都合でどうなるかしら……

と、おっしゃっており、弟さんの活躍を楽しみにされていたようです。

「倍賞千恵子は幼少期から童謡歌手として活動していた!」に続く

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