破天荒なお父さんとの生活に嫌気が差し、中学入学後、経済的に自立しようと新聞配達を始められた、大仁田厚(おおにた あつし)さんは、中学卒業後は一旦、高校に進学されるも、すぐに中退。再び自立の道を模索され、徒歩で日本1周の旅へ出られると、その後、自宅が火事になったことで父親に呼び戻され、突然、プロレスラーになることを勧められます。


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プロフィール!

大仁田さんは、1957年10月25日生まれ、
長崎県長崎市のご出身です。

身長181センチ、
体重77キロ

血液型はA型、

学歴は、
瓊浦高等学校中退後、
1999年4月、駿台学園高等学校定時制課程普通科第3年次編入学、
2000年3月、同校卒業、
2000年4月、明海大学経済学部に入学(1年で中退)、
2001年4月、明治大学政治経済学部経済学科(夜学)に入学、
2005年、同大学卒業、

趣味は、
釣り、映画鑑賞、

特技は、
スキューバダイビング、料理、

だそうです。

裕福な暮らしが一転、貧乏に

大仁田さんは、幼い頃、ご両親が洋品店を経営し、
長崎市内に4,5店舗を展開するなど、
経営が順調だったことから、裕福な家庭で育ったのですが、

大仁田さんが小学校2年生の時に、
お父さんが「小豆相場」で失敗したことで、
莫大な借金を抱えてしまい、洋品店は倒産。

そのせいで両親は離婚し、
大仁田さんはお母さんに引き取られます。

小学生時代の大仁田さん

そして、お母さんとの二人の生活は、
経済的には厳しかったものの、

破天荒だったお父さんから離れ、
心穏やかに暮らされていたのですが・・・

破天荒な父親に振り回される

ある日、突然、お父さんから、
「大仁田の姓を残したい」との理由で呼び出されると、
わけがわからないまま東京に連れて行かれ、
そのまま東京で暮らすことに。

実はお父さんは、破産したものの、
大金持ちだったおじいさんから1億円をもらっており、

上京後はそのお金で婦人服メーカーを興こし、
再び、裕福な生活を送られていたのでした。

(この時期にお父さんは再婚)

しかし、またしても、お店の売上を着服し賭博に興じると、
ついには会社を売り、その売上で賭け事漬けの毎日。

そして、ついにすべてが尽き、大仁田さんは、
お父さんに連れられて、故郷長崎に帰られたのでした。

中学では新聞配達

そんなことがあり、大仁田さんは中学に進学するも、
お父さんに振り回される生活に嫌気が差し、
生活費を自分で稼ごうとすぐに新聞配達を開始。

朝の3時に販売店に行き、朝の5時過ぎに仕事を終え帰宅、
という生活を中学の3年間続けられたのですが、

大仁田さんは新しいお母さんとの折り合いが悪く、
朝ごはん、お弁当はすべて自分で作らざるを得ず、
お小遣いももらえなかったことから、

4000円のお給料は、ほとんど、
お弁当代と修学旅行の積み立てに消えていったのでした。

徒歩で日本1周を目指す

そんな大仁田さんは中学を卒業をすると、
高校に進学するも、すぐに中退。

再び自立の道を模索し、子どもの頃から憧れていた、
外国を目指されるのですが、お金がないことで断念し、
代わりに徒歩で日本1周することを決意されたのでした。

大仁田さんは当時を振り返り、

オヤジには、
「世界も広いけど、日本も広い。日本の中にも絶対に大物がいるはず。
 自分はそいつと出会いたい。男を磨いてきたい」って力説したよ。
そしたら、「行ってこい」って言ってくれたんだよ。

今、思えば日本1周したいっていうオレも変だけど、
行ってこいっていうオヤジも変なヤツだと思うよ(笑)

と、明かされています。

ただ、これは表向きの理由で、
本当は、お父さんとの決別が目的だったのですが・・・

さておき、こうして大仁田さんは、
新聞配達で稼いだ、所持金2万8000円と、
リュックサックひとつで、長崎県庁前から出発したのでした。

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プロレスラーになる決意をする

それから3ヶ月後、大仁田さんは神戸で日本1周を一時中断し、
お酒の箱を作る工場で住み込みで働いていたのですが、

1年ほど経った頃、お父さんに電話をすると、
なんと、家が火事で焼けてしまったとのことで、

お父さんとの決別を決意したにもかかわらず、
あわてて夜行列車に乗って実家に帰られます。

そして、火災の処理が終わると、
突然、お父さんから、

「お前、紹介してやるからプロレスラーになってみろよ」

との言葉が。

大仁田さんは、当時、
プロレスにはさほど興味はなかったのですが、

中学の時、友達が持っていたプロレスの雑誌で、
ペドロ・モラレスとブルーノ・サンマルチノの試合の写真を見て、

「すげぇな。これが世界だな」

と、感動したことを思い起こし、
プロレスラーになることを決意したのでした。

写真は、ペドロ・モラレスとジャイアント馬場。

大仁田さんは、その時のことを振り返り、

オヤジからしたら、高校にも行かないで、
ウロウロしていてもしょうがないだろうと思ったのかもしれない。

でも、オレの中でずっと外国に行きたい気持ちがあったから、
その当時、体ひとつで外国へ行って日本人が通用する世界って、
野球もサッカーも今のようではなくて、プロレスぐらいしかなかった。

だから、オヤジの言葉に何かひらめいた。
「そうだ、日本一周あきらめて、世界へ行こう。
 それにはプロレスラーになるしかない。
自分の夢がかなうかもしれない」ってね。

と、明かされています。

こうして、1973年10月、大仁田さんは、
お父さんとお父さんの知人のプロモーターに連れられ、

全日本プロレスの蔵前国技館での試合の前、
控室を訪ねられると・・・

「ジャイアント馬場の弟子に!若手三羽烏?」に続く

幼少期の大仁田さんと妹さん♪

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