大仁田厚の引退回数は?有刺鉄線電流爆破デスマッチで傷は1000針以上!

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1989年4月、自ら新団体「FMW」を旗揚げされた、大仁田厚(おおにた あつし)さんは、「有刺鉄線デスマッチ」で観客を熱狂の渦に巻き込むと、さらに、「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」など過激なデスマッチを展開し、一気に大ブレイク。ところが、1993年、九州巡業中に過労から呼吸困難に陥ると、意識不明の重体に。38日後には見事復帰を果たされるのですが、「このままデスマッチを続ければ本当に死んでしまう」と、1995年2度目の引退をされるのですが・・・




「昔タイガーマスクと!左膝の大けがで引退!女子プロコーチで復帰!」からの続き

「チケット持ってますか?」で闘志を燃やす


現役復帰戦は、女子プロレスファンの大ブーイングの中で行われ、
誰にも歓迎されなかった大仁田さんですが、

逆に、男子のリングで女子がやるなど、
今までの常識をひっくりかえすようなことも、
ありなのではと、突如ひらめかれます。

実は、後に、大仁田さんは、
それを実現する新団体を設立することになるのですが、
この後、大仁田さんの背中を強く押す出来事が起こります。

それは、当時、爆発的な人気を誇っていた、
前田日明さん率いる「第2次UWF」の興行(1988年)に、
ジャパン女子の最高顧問である新間寿さんから、
挑戦状を持っていくようにことづかり、

いざ、大仁田さんが、興行の行われる、
大阪府立体育会館の入口に着くと、

こともあろうにスタッフに入場を止められて、押し問答の末、

「チケット持ってますか?」

と言われたのです。

つまり、完全にプロレスラーであることを無視され、
一般のファンと同様の扱いをされたのです。

そして、なんとか控室にたどり着くも、ドアは閉ざされたままで、
挑戦状など誰も受け取ってはくれなかったのでした。

それでも、会場に入ると、
超満員の観客が席を埋め尽くしていたそうで、

この出来事で大仁田さんは、心に火が付き、

「この野郎、今に見てろよ。絶対に見返してやる」

と固く誓われたのでした。

新団体「FMW」を旗揚げ


そんな大仁田さんは、1989年7月、
「格闘技の祭典」のメインイベントで、
空手家の青柳政司さんと異種格闘技戦をされるのですが、
(初の日本人同士での異種格闘技戦)

この対戦では、大仁田さんは、禁止されていた顔面へのエルボーほか、
頭突きや場外戦でイス攻撃を繰り出し、
お互いのセコンドが収拾のつかない大乱闘に。


「格闘技の祭典」メインイベント(1989年7月)より。
青柳政司さんと大仁田さん。


結果、大仁田さんは、
反則負けとはなってしまうのですが、

この試合では、観客が異常なまでに興奮し、
暴動寸前だったそうで、

これに手応えを感じた大仁田さんは、
その直後に新団体「FMW」を旗揚げされたのでした。

大仁田さんは、後に、

青柳さんとなら、やれるんじゃないかって思った。
セコンドがあれだけ殺気立って、客は暴動寸前で、
あの興奮はすさまじいものがあった。

全日本にいたころでは、考えられなかった熱気を感じた時、
これはイケるんじゃないかと確信した。

と、明かされています。

また、この年、大仁田さんは、国際プロレス崩壊後、
契約してくれる団体を失い、やむにやまれぬ形で、
新団体「パイオニア戦志」を設立された剛竜馬さんと、
後楽園ホールで対戦されているのですが、

同じような立場の剛さんにも、
とても勇気づけられたそうです。

「おもちゃ箱をひっくり返したようなプロレス」


こうして、同年10月6日、
名古屋市露橋スポーツセンターにて、
旗揚げ戦を行われた大仁田さんは、

「おもちゃ箱をひっくり返したようなプロレスをやりたい」

との思いから、

その後は、プロレス対柔道の異種格闘技戦や、
女子プロレスの1対3のハンディキャップマッチなど、
バラエティに富んだ試合を敢行すると、

今までになかった斬新な試合に、
目の肥えたプロレスファンもうならせ、評判は上々。

それでも、ほっとしている暇はなく、今後の試合について、
青柳戦以上のインパクトがある試合にするにはどうすれば良いのか、
考え込む毎日だったそうです。

また、大仁田さんの中では、いまだ、

「チケット持ってますか?」

の屈辱が忘れられられなかったそうで、
なんとか見返してやりたいとの気持ちでいたのでした。

「有刺鉄線デスマッチ」で人気に


すると、ある時、ふと、海外修行時代にテネシーで見た、
リングに有刺鉄線を巻くデスマッチをひらめいたそうで、

早速、翌年の1989年12月10日、
ターザン後藤さんとタッグを組んだ「有刺鉄線デスマッチ」を敢行。

有刺鉄線をぐるぐるに巻きつけたリングに激突した大仁田さんは、
右上腕部からおびただしい血を流すのですが、
「UWF」では観ることのできないそのリアルさに、
ファンは一気にヒートアップ。

観客の異様な興奮に包まれたこの試合は、
東京スポーツ制定のプロレス大賞「特別賞」を受賞し、
業界内からも高い評価を得たのでした。

(ちなみに大仁田さんは、このデスマッチで25針も縫ったそうです。)


過労から危篤状態~復帰するも・・・


さらに、大仁田さんは、1990年8月4日、
有刺鉄線に電流を流し、そこに爆弾をつける、
「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」
など、過激なデスマッチを展開すると、


「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」(1990年8月4日)より。
大仁田さんとターザン後藤さん。


通常なら、「もっとやれ!」と過激な試合を求めるファンが、
「もうやめてくれ」と懇願するほどだったそうで、

この成功で、大仁田さんは、
一気にスターの階段を駆け上ります。

そして、その後も、大仁田さんは、
川崎球場や西宮球場などの大会場で大掛かりなデスマッチを開催し続け、
ザ・シーク、タイガー・ジェット・シン、テリー・ファンクら、
往年の名選手を招聘して数多くの抗争を展開するのですが、

1993年2月、九州巡業中に過労から呼吸困難に陥ると、
意識不明になってしまい、一時、危篤状態に。

その後、死の淵から生還し、37日間の入院生活を経て、
同年4月22日の後楽園ホール大会で復帰されたものの、

5月5日の川崎球場興業で、
テリー・ファンクさんと電流爆破マッチで対戦すると、

「このままデスマッチを続ければ本当に死んでしまう」

と、ついに心は引退へと向かっていったのでした。

天龍との試合で引退を決意


そして、そんな大仁田さんのもとに、翌年の1994年、
天龍さんから対戦のオファーが入ります。

天龍さんといえば、大仁田さんは、
全日本でデビューして間もないころ、

大相撲から鳴り物入りで入団した天龍さんの扱いに反発し、
馬場さんに引退を宣言したほど意識していた相手。

その天龍さんと、自らの団体を背負って対戦することに、
心を動かされた大仁田さんはこのオファーを受けると、

「天龍に負けたら引退する」

と、心に決めたのでした。

そして、同年5月5日、川崎球場大会のメインイベントで、
5万人を越す観客の中、天龍さんと、
「ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチ」で対戦。


「ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチ」
(1994年5月5日)より。大仁田さんと天龍さん。


結果、大仁田さんは天龍さんに敗れ、
1年後の引退を宣言されると、

(1年後というのは、引退した後もFMWを残したいため、
 その準備に1年間という期間を置いたのだそうです。)

1995年5月5日、川崎球場で、5万8250人の観客が見守る中、
弟子のハヤブサさんと対戦し、引退されたのでした。


しかし!


1996年12月にはまたもや現役復帰。

以降、大仁田さんは引退と復帰を7回も繰り返されており、
さすがに今では、周りも慣れっこになってしまっているのですが(笑)、

それでも、大仁田さんの生身の体を張ったデスマッチが、
見ている人々の心を熱くさせているのは確か。

(2度目の引退試合前の時点で、なんと1000針達成)

60歳をまわった現在でも現役活動中ということで、
ちょっとお体が心配ですが・・・

応援しています!!



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