大黒摩季の昔は?下積み時代は「B’z」「ZARD」「TUBE」らのバックコーラス!

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1989年、19歳の時、「ビーイング」のオーディションに合格し、様々なアーティストのバックコーラスを経て、1992年「STOP MOTION」でデビューするも不発に終わり、再びバックコーラスに逆戻りしていた、大黒摩季(おおぐろ まき)さんですが、同年、個人的な知り合いだったCMプロデューサーの依頼を事務所に通さず制作した「DA・KA・RA」が、CMタイアップされると、事務所に問い合わせが殺到。同年9月には、シングルとしてリリースするとミリオンセラーとなったのでした。そして、その後は、出す曲出す曲、大ヒットとなるのですが・・・




プロフィール!


大黒さんは、1969年12月31日生まれ、
北海道札幌市南区のご出身、

身長161センチ、

血液型はA型、

学歴は、
藤女子高等学校卒業、

実家は、
製パン業の「株式会社札幌キムラヤ」

だそうです。


オーディションで「ビーイング」へ入社


大黒さんは3歳でピアノを習い始めると、
小学生の頃から作曲を始め、

中学生の頃にはバンドを結成し、
ライブ活動をされていたそうで、

1989年、19歳の時に、デモテープを、
「ビーイング」「ソニー」「ビクター」などのレコード会社に送り、
オーディションを受けられると、見事合格。

その中には、

「いいじゃない、いいじゃない、すぐCDを出そうよ」

と言ってくれる会社もあったそうですが、

大黒さんは、面接をしてくれたプロデューサーに、
「目の奥の意志の強さ」を感じた「ビーイング」を選ばれたのでした。

ちなみに、大黒さんは、後に、
その理由について、

だってその時点で、私は自分が完璧だと思ってなかったから。
「今すぐ出そうね」って言うっていう人に、
ビジネスの匂いだけを感じ取ったんですよね。

自分が若かったからかな。
で、ビーイングに行ったら、すごく小っちゃいビルで、
「うわぁー、大丈夫かなあ」と思ったけど、
「来たからには会って行こう」ってビルを上がっていくと、
1対4ぐらいの面接で、「素材としてはいいと思うよ」って、
いきなり素材って言われて、カチーンと来て(笑)

まあ、でもちょっと話を聴いてみようと。
そうしたら「いい曲というのは」とか、
「クリエイティブというのは」とか、そういう話が始まって、
それがかなり面白かったんですよね。

そういうふうにアプローチしてきて、
熱く語ってくる制作の人は他のレコード会社にいなかった。

ビーイングでは、まず私の曲をこてんぱんに言われた。
普通だったら面接が済んで、第2ステージぐらいでやることですよね。
決まってからやることを、決まってもないのに熱く語るわけです(笑)。

と、明かしておられます。

「B’z」「ZARD」「TUBE」などのバックコーラスをしていた!


しかし、その後しばらくは、
「B’z」「ZARD」「TUBE」「T-BOLAN」「DEEN」、織田哲郎さんなど、
ビーイング系アーティストのバックコーラスの仕事ばかりだったそうで、

多くのアーティストから学ぶことはあったとはいえ、
やはり、大黒さんの夢は歌手デビューすること。

それがなかなか叶わなかったため、ついに、大黒さんは、
会社を辞めて、アメリカへ旅に出られたのでした。


デビュー曲「STOP MOTION」は不発


すると、アメリカ滞在先で、

「歌手デビューの話が進んでいる」

と、社長から連絡を受けたそうで、
大黒さんは、帰国し、「ビーイング」に復帰。

1992年、「STOP MOTION」で、
歌手デビューされるのですが・・・


「STOP MOTION」

セールスは散々で、大黒さんいわく、

「親戚しか買ってないくらいの枚数」

しか売れず、そのせいで、大黒さんは、
またもや、バックコーラスに戻るように言われ、

大黒さんのレコーディングチームは、
解散となってしまったのでした。

「DA・KA・RA」がミリオンヒット


そんな折、大黒さんは、以前から仕事をもらうなどお世話になっていた、
とあるCMプロデューサーに事務所で出会われるのですが、

その方の話では、

いいCMの話があって、ビーイングさんに来たら、
曲があると思って来たんだけど、もうないと断られた。

そうで、そこで、大黒さんは、

いつまでになにをしたらいいですか?
やりますよ、恩返しとして。

と、答えられると、

明日の昼までに

と、言われたため、

同期のアシスタントやアレンジャーに、
無理を言って手伝ってもらい、徹夜して「DA・KA・RA」を完成。

こうして、「DA・KA・RA」は、
「ホットヌードル」のCMとタイアップすると、
たちまち話題となり、ビーイングに問い合わせが殺到。



会社からは、

お前は勝手になにをやってるんだ!?

と、怒られたそうですが、

それでも、評判が良かったため、1992年9月、
セカンドシングルとして、「DA・KA・RA」がリリースされると、
ミリオンセールスを記録。


「DA・KA・RA」

大黒さんは、この年の、
「第34回日本レコード大賞新人賞」を受賞するなど、
一躍、人気アーティストの仲間入りを果されたのでした。

大ヒットを連発


そして、大黒さんは、その後も、

1993年2月「チョット」
1993年4月「別れましょう私から消えましょうあなたから」
1993年7月「Harlem Night」
1993年12月「あなただけ見つめてる」



1994年1月「白いGradation」
1994年4月「夏が来る」
1994年10月「永遠の夢に向かって」
1995年2月「ら・ら・ら」



1995年5月「いちばん近くにいてね」
1995年11月「愛してます」
1996年2月「あぁ」
1996年12月「熱くなれ」



と、立て続けにシングルをリリースすると、
いづれも大ヒット記録。

トップアーティストの座を、
不動のものにされたのでした。


「レインボースクエア有明」で初ライブも・・・


ところで、大黒さんは、この頃、
テレビ出演などメディアへの露出はほとんどなく、
そのうえ、ライブ活動も行っていなかったため、

「大黒摩季は実在しないのでは」

との都市伝説が流れます。

ただ、大黒さんは、後にその理由について、

私は制作も一人でやっていたので、
とにかく音源作りに時間を費やしていたんですよね。

テレビって、たかだか1分半の出演のために1日拘束されたりもする。
でも、締め切りは延ばせないわけだから。

で、出なくてもいいならそれでいい、
みんながそれを面白いって言うならそれでいいって放置していたら、
ますます人前に出にくくなっちゃって。

と、明かされているのですが、

それでも、

「そろそろファンに会ったほうがいい」

との思いから、

1997年には、「レインボースクエア有明」で、
初のソロライブ「LIVE NATURE#0~Nice to meet you~」を開催し、
初めて本格的にファンの前に姿を現します。

(このライブの一部は、音楽番組、
 「ミュージックステーション」で生中継されました。)

そして、このライブ以降、
大黒さんは、全国ツアーを展開されたのですが・・・

1999年、30歳の時、

「歌いたいことがなくなった」

との理由から、突然、音楽活動を休止されたのでした。

「大黒摩季の結婚相手は?子供は?2度の休養の理由は?
病気から完全復帰!」
に続く



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