草笛光子の年齢は?本名は?若い頃は松竹歌劇団!ニューヨークにも!

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高校3年生の時、友達に頼まれて受験された「松竹歌劇団(SKD)」に60倍の競争率の中で合格された、草笛光子(くさぶえ みつこ)さん。入団後は、たちまちその華やかさで存在感を発揮し、首席で退団されると、その後、映画女優として活躍。一方で、ミュージカル「ラ・マンチャの男」「シカゴ」を初めて日本で上演するなど、日本ミュージカルの草分け的存在としても知られています。


年齢は?本名は?学歴は?

草笛さんは、1933年10月22日生まれ、
神奈川県横浜市神奈川区のご出身です。

身長158センチ、

血液型はB型、

本名は、
栗田 光子(くりた みつこ)、

学歴は、
神奈川県立横浜第一高等女学校中退、
(現在の神奈川県立横浜平沼高等学校)

だそうです。

内気な少女時代は創作舞踊部

草笛さんは、幼い頃から、
家族以外とは会話ができないほど内気だったそうで、

高校時代は通学のためのひと駅の電車でさえ、
心臓がドキドキして乗れずに、4キロもの道のりを、
歩いて通われていたのだとか。

高校時代の草笛さん。めちゃ美少女です♪

そして、クラブ活動も、
人と話す必要のない創作舞踊部に入られ、

先生から出されたお題を、先生のピアノに合わせて、
自分が感じたことを表現されていたそうで、

草笛さんは、当時のことを振り返り、

もしかしたらあれが表現をする面白さを感じた第一歩だったかもね。
本当は人とコミュニケーションとりたかったんだ、
自分を表現したかったんだって、
ずいぶん大人になってからそう気づきました。

とおっしゃっています。

松竹歌劇団(SKD)に入団

そんな草笛さんですが、高校3年生の時、
「松竹歌劇団(SKD)」に憧れていた友達から、

自分では無理だから、代わりに、
入団テストを受けてほしいと頼まれたそうで、

草笛さんは、「SKD」について何も知らなかったことから、
その友達にどんなところか聞くと、

「女が男の役をする」

と言われ、

「恐ろしいなあ」

と、思われたそうですが、

友達のたっての願いだったことから、受験されると、
なんと、60倍の競争率を突破し、見事合格。

これには、面食らい、当初は、
困惑されていた草笛さんでしたが、

ご両親が、

「水商売ぎりぎりの世界に娘をやるのか」

と、猛反対されたことで、逆に反発心が芽生え、
「SKD」に入団することを決意されたのでした。

その後、草笛さんは、高校の先生のはからいで、
一ヶ月間高校を休学することを許され、
「松竹音楽舞踊学校」(SKDの劇団員養成機関)
に通うことになったのですが、

高校卒業まであと3ヶ月という時期に、
「SKD」から、卒業まで待てないと言われたそうで、

草笛さんは、1950年、高校を中退して、
「SKD」に5期生として入団されたのでした。

「純潔革命」で映画デビュー

こうして、「SKD」に入団された草笛さんは、

入ったからには番付を上げる。卒業までに一番になってやる。

と、決意されたそうで、

1952年には、舞台「リオ・グランデ」で、
歌姫ビアトリス役に抜擢。

翌年の1953年には、舞台「春のおどり」で、
プリマドンナとして出演され、
舞台ばえする容姿と抜群の歌唱力で注目を集められると、

同年3月には、草笛さんの高まる人気に目をつけた、
親会社の「松竹」に引き抜かれ、
「純潔革命」の主演でスクリーンデビュー。

同年8月には、「秋のおどり」に出演され、
主題歌の「赤い恋の花」で、
歌手としてもデビューを果されたのでした。

SKD時代の草笛さん

また、同年秋には、松竹オールスター映画、
「花の生涯」にも出演され、

翌年の1954年には、「春の若草」で、
メインキャストを務められるなど、
早くも映画でひときわ輝く存在感を放たれたのでした。

「社長」シリーズや「光子の窓」で活躍

そして、1954年、
「松竹歌劇団(SKD)」を首席で卒業された草笛さんは、
いろいろな映画会社から誘いを受けるのですが、

ここまで芸を身に着けさせたくれた恩から、
筋を通す形で「松竹」に所属。

ただ、当時の「松竹」の路線であった、
メロドラマやホームドラマで演じられた健気なヒロイン役は、

華やかな草笛さんのキャラクターとは合わず、
さほど、大きな話題とはならなかったようで、

1956年には、個性を活かすことのできない「松竹」を退社し、
東宝と専属契約を結ばれると、

翌年1957年の映画「雨情」で、
森繁久彌さん演じる童謡詩人が恋する芸者役を皮切りに、

以降、森繁さん主演の「社長」シリーズで、
社長の浮気相手役を華やかに演じられ、
草笛さんのハマり役となったのでした。

「社長紳士録」(1964年)より。森繁久彌さんと草笛さん。

ちなみに、草笛さんは、女優としての活動以外にも、
1958年、ご自身の冠番組「光子の窓」で司会進行役を務められると、

毎回ゲストを迎えてトークをしながら、歌や踊りで楽しませる、
日本初のバラエティー番組の原型を確立されています。

「光子の窓」より。

ミュージカル「ラ・マンチャの男」でコンチクショー精神

ところで、草笛さんは、映画女優をされながらも、
1960年代には、まだ日本にはなかった、
ミュージカルに注目されていたそうで、

日本にまだミュージカルのミの字もない時代でしたねえ。
芝居する人、歌う人、踊る人と分かれている。

ミュージカルというものがあると知ったのは、
NHKのラジオで森繁さんと歌入りドラマをやっていた頃です。

NHKの資料室に入り浸って外国のミュージカルのレコードを聴き、
譜面を自分で書き写したり。ニューヨークまで観に行ったり。

と、ミュージカルに傾倒していかれるのですが、

そんな1960年代後半のこと、
出演が決まっていた舞台の勉強のために、
本場の作品を観ようとロンドンに行こうとした矢先、

突然、その役を降ろされ、
別の人が演じることになってしまいます。

悲しくて悔しくて、自分を降ろした、
劇作家でプロデューサーの菊田一夫さんのところへ行き、
女優をやめると、怒って泣いて訴えた草笛さんですが、

菊田さんには、

ニューヨークで「ラ・マンチャの男」をやっているから観てきなさい。

と、勧められ、

草笛さんは勧められるまま、ニューヨークで、
ミュージカル「ラ・マンチャの男」を観劇すると、
衝撃から一気に女優魂が燃え上がったそうで、

このミュージカルに出演させてくれるのなら、
女優を続けたいと思われ、

帰国後、菊田さんのところへ直談判に行かれると、
菊田さんは、願いを聞き入れてくれ、上演権を取得。

こうして、草笛さんは、1969年「ラ・マンチャの男」
ヒロイン、アルドンサ役を演じられたのでした。

「ラ・マンチャの男」より。

ちなみに、もっと完成度をあげようと思っていた矢先の、
1973年、草笛さんは、またしても菊田さんによって、
アルドンサ役を降ろされてしまい、

草笛さんは相当なショックは受けたと同時に、
菊田さんを恨み、自殺まで考えたそうですが、

この出来事が起爆剤となり、以降、何があっても、
「コンチクショー精神」で乗り越えるようになったそうです。

母親との絆

そんな草笛さんは、「松竹歌劇団(SKD)」退団以降、
2009年にオスカープロモーションと業務提携するまで、
フリーで活動されているのですが、

そのマネージャーを務められていたのは、
もともと草笛さんの芸能界入りに反対されていたお母さんで、
長きに渡り、公私共に支えられるも、2009年に他界。

草笛さんは、お母さんが亡くなった日に、
足首にミサンガをつけたそうで、

もう色が変わってしまったけど、赤い絹糸だったのよ。
母が亡くなった日に結んだの。まだ一度も切れてない。
だから母とはまだ繋がっているの。

と、語っておられました。

また、草笛さんは、ミサンガが切れた時のために、
いつもバッグの中に赤い絹糸を用意し、
切れたらすぐに結び直すつもりだそうで、ゆえに、
お母さんとは永遠につながっているとおっしゃっていました。

さて、いかがでしたでしょうか?

1981年(48歳)には、2000万円の借金をしてまで、
一人芝居「光の彼方に」を敢行し、

2002年(68歳)には、舞台「Witウイット」で、
ガン患者を演じるために、頭を丸坊主にして、
後ろ姿の全裸シーンを演じられた草笛さんですが、

このすさまじい女優魂を支えていたのは、
お母さんだったのかもしれませんね。

いつまでも若々しい草笛さんですが、
2018年現在、すでに84歳。

体調には十分に気をつけながら、
元気な姿を見せ続けてほしいものです。

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