1949年「晩春」に出演されて以降、「東京物語」をはじめ、小津安二郎監督作品に6本出演され、「小津作品=原節子」となった原節子(はら せつこ)さんですが、1963年に小津監督が亡くなると、映画界をひっそりと引退。以降、一度も表舞台に姿を表すことはなく、2015年95歳で他界されています。


「原節子はハーフ?若い頃はナチスと?日独合作映画でスターダム!」からのつづき

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「青い山脈」が大ヒット

戦後、黒澤明監督作品「わが青春に悔なし」や、
吉村公三郎監督作品「安城家の舞踏会」でヒロインを務め、
大女優としての地位を確立された原さんは、

その後も、

1948年「誘惑」(吉村公三郎 監督)
     「時の貞操 前編」(吉村廉 監督)
     「時の貞操 後編」(吉村廉 監督)
     「颱風圏の女」(大庭秀雄 監督)
     「幸福の限界」(木村恵吾 監督)

「時の貞操」より。原さんと若原雅夫さん。

1949年「殿様ホテル」(倉田文人 監督)
     「お嬢さん乾杯」(木下惠介 監督)
     「青い山脈」(今井正 監督)
     「続青い山脈」(今井正 監督)
     「晩春」(小津安二郎 監督)

「青い山脈」より。木暮実千代さんと原さん。

1950年「白雪先生と子供たち」(吉原廉 監督)
     「女医の診察室」(吉村廉 監督)
     「野生」(沢村勉 監督)
     「七色の花」(春原政久 監督)

「お嬢さん乾杯」より。原さんと佐野周二さん。

1951年「白痴」(黒澤明 監督)
     「麦秋」(小津安二郎 監督)
     「めし」(成瀬巳喜男 監督)
1952年「風ふたたび」(豊田四郎 監督)
     「東京の恋人」(千葉泰樹 監督)
1953年「恋の風雲児」(山本嘉次郎 監督)

「白痴」より。森雅之さんと原さん。

と、数多くの映画に出演され、

1949年には、封建的な田舎町の体制と闘う、
女性教師役を演じられた「青い山脈」が大ヒット。

1951年には、「めし」が、
「日本映画文化賞作品賞」「世界映画社賞作品賞」
「毎日日本映画コンクール日本映画賞」
「麦秋」との共同受賞)
など数多くの賞を獲得するなど、

「めし」より。原さんと上原謙さん。

順調満帆な女優生活を送られていたのですが・・・

実兄が映画「白魚」撮影中に事故死

1953年、原さんの主演映画「白魚」に、
東宝のカメラマンとして参加されていた、
原さんの実兄、會田吉男さんが、

御殿場駅構内での撮影セッティング中に、
助手の伊藤哲夫さんとともに列車にはねられて亡くなる、
という悲劇に見舞われます。

(しかも、原さんは、その一部始終を目撃されたのだそうです)

小津監督「東京物語」ほか出演映画

それでも、原さんは、事故から1週間後にクランクインした、
小津監督の「東京物語」では、
ヒロインを務め、渾身の演技を披露すると、

この作品は、日本では、
長い間、評価はそれほど高くなかったのですが、

やがて、フランスをはじめ、国際的に高い評価を受け、
アッバス・キアロスタミ(イラン)やヴィム・ベンダース(ドイツ)といった、
海外の映画監督に大きな影響を与えます。

「東京物語」より。原さんと笠智衆さん。

そして、翌年の1954年には、
体調を崩し、入退院を繰り返すも、
(引退もささやかれていたようです)

その後は、再び、

1954年「山の音」(成瀬巳喜男 監督)
1955年「ノンちゃん雲に乗る」(倉田文人 監督)
     「美しき母」(熊谷虎久 監督)
     「驟雨」(成瀬巳喜男 監督)
1956年「愛情の決算」(佐分利信 監督)
     「婚約三羽烏」(杉江敏男 監督)
     「女因と共に」(久松静児 監督)
     「兄とその妹」(松林宗恵 監督)

「驟雨」より。原さんと香川京子さん。

1957年「大番」(千葉泰樹 監督)
     「東京暮色」(小津安二郎 監督)
     「智恵子抄」(熊谷久虎 監督)
     「続大番 風雲編」(千葉泰樹 監督)
     「最後の脱走」(谷口千吉 監督)
     「続々大番 怒涛編」(千葉泰樹 監督)
1958年「女であること」(川島雄三 監督)
     「東京の休日」(山本嘉次郎 監督)
     「大番 完結編」(千葉泰樹 監督)

「大番」より。原さんと加東大介さん。

1959年「女ごころ」(丸山誠治 監督)
     「日本誕生」(稲垣浩 監督)
1960年「路傍の石」(久松静児 監督)
     「娘・妻・母」(成瀬巳喜男 監督)
     「ふんどし医者」(稲垣浩 監督)
     「秋日和」(小津安二郎 監督)
1961年「慕情の人」(丸山誠治 監督)
     「小早川家の秋」(小津安二郎 監督)
1962年「娘と私」(堀川弘通 監督)
     「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(稲垣浩 監督)

「女ごころ」より。
(左から)原さん、森雅之さん、団令子さん。

と、数多くの作品に出演されたのでした。

引退理由は?

しかし、1963年に小津監督が他界すると、
原さんは、小津監督の通夜に姿を見せたのを最後に、
ひっそりと女優業を引退。
(以降、公の場に姿を表すことはありませんでした)

そのため、

「小津の死に殉じるかのように」

「小津安二郎の死を悼んで」

と言われることが多いのですが、

実際、めったに人を褒めない小津監督が、

一時、世間から、美貌がわざわいして演技が大変まずい、
というひどい噂をたてられたこともあるが、
僕はむしろ世間で巧いといわれている俳優こそまずくて、
彼女の方がはるかに巧いとすら思っている。

原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。
「原節子は大根だ」と評するのは、
むしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。

実際、お世辞抜きにして、
日本の映画女優としては最高だと私は思っている。

と、原さんのことをベタ褒めしておられることから、
お二人の信頼関係が強かったことは間違いないでしょう。

また、引退後の原さんと交流があった、
女優の司葉子さんは、

節子さんは15歳から映画に出続けてらっしゃってね。
私とは一回り以上年が離れていますから、
私も最初のころの作品は知りません。

でも、映画で1本主役を張るとね、
どれだけのエネルギーと努力が必要だったか。

お辞めになるまでの年数で、
その後の人生の分もエネルギーを使われてしまったんじゃないかしら。

ですから、ご本人からすれば、もう十分。
燃焼したってことだと思います。
ご本人とそういうお話をしたこともありますよ。

そうすると、まだまだ、
「あそこはこうすれば良かった、あの場面は失敗だった」
なんてね、反省の弁をたくさんおっしゃることもあったんです。

と、明かされており、

それでなくても、40代になって主役のオファーが少なくなったうえ、
急速にテレビが普及して映画が衰退していった時期に、
支えにしていた小津監督が亡くなったことで、
ご自分の中で映画は終わったと考えられたのかもしれません。

死因は?

こうして、原さんは、日本映画界の黄金期を支えながらも、
42歳という若さで引退すると、

その後、一度も表舞台には戻ることがないまま、
2015年9月5日、
「肺炎」のため95歳で他界されたのでした。

独身も、小津安二郎監督と?

そんな原さんの、
気になるプライベートですが、

原さんは、一度も結婚されておらず、
生涯独身だったようです。

その一方で、原さんが、小津監督の通夜に、
小津監督の自宅の玄関先で号泣したり、

小津監督他界以降、
女優業を引退されたことなどから、

原さんは、ずっと、小津安二郎監督とのロマンスを、
ささやかれていたのですが、

近年では、実は、お二人のロマンスは、
当時のマスコミとファンが作り上げた昭和のメルヘン、

そして、小津監督自身が、映画の宣伝に、
原さんとのロマンス(ゴシップ)を利用していた、
などとも考えられるようになっているようです。

小津監督と原さん。

ちなみに、小津さんは、1962年の日記の中で、

「原に酔余(酔って)電話する」

と、綴られてもいるので、もしかすると、
多少の恋愛感情もあったかもしれませんね。

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義兄との恋愛&政治活動

ところで、原さんの恋愛のうわさで、
一番信憑性が高いと言われているのが、

実のお姉さんのご主人で、
映画監督の熊谷久虎(くまがい ひさとら)さん。

というのも、熊谷さんは、原さんを映画界へ誘い、
その後もずっと原さんの後見人を務められた人物で、

1937年に映画「新しき土」が公開された際には、
原さんに付き添ってドイツに渡られているほか、

戦時中は、熊谷さんが作った国策映画、
「上海陸戦隊」(1939年)
「指導物語」(1941年)
に、原さんが出演されたりと、
関係は密なものだったようで、

「指導物語」より。
(左から)丸山定夫さん、原さん、若原春江さん。

さらに、満州と韓国の国境警察隊の活躍を描く、
「望楼の決死隊」(1943年)の撮影時には、

原さんは、熊谷さんから託された、

日本は全勢力をあげて南方諸国に領土を確保しなければならない、
その時に日本国民の目を北にそらそうと目論んでいるのは、
ユダヤ人の陰謀だ、

この「望楼の決死隊」は、日本国民を撹乱しようとする、
ユダヤの謀略だから、即刻中止されたし。

と書かれた手紙を、同映画の今井正監督に手渡され、

今井監督を、

当時、節ちゃんもユダヤ人謀略説を唱えていたのには驚いた。

と驚かせています。

また、原さんは、女優業引退後は、
熊谷さん夫婦(姉夫婦)の家に移り住み、

近所付き合いもせず、その家から出ようとしなかったそうで、
熊谷さんとは、とても不思議なご関係だったようです。

ちなみに、熊谷さんは、戦後、
国粋主義の思想団体「スメラ学塾」を設立し、
極右団体の重鎮となられると、映画界からは遠ざかり、
1986年、82歳で他界されています。

原さん(17歳)と熊谷久虎監督(33歳)。

さて、いかがでしたでしょうか?

「永遠の処女」と呼ばれ、その日本人離れした彫りの深い、
エキゾチックな顔立ちで、日本映画界の黄金期を支えられた原さん。

義兄との政治的な活動や、謎めいた引退など、
現在もその女優人生については語られることが多く、
まるで、原さんの人生が映画そのもののようですが、

その性格は、大女優然とせず、
とても気さくで人に気を遣われていたことから、
多くの人に慕われていたそうで、

もしかしたら、突然の引退も、
そんな繊細な性格ゆえだったのかもしれませんね。

この機会に、銀幕のスターという言葉がふさわしい、
原さんの作品の数々、是非ご覧になってはいかがでしょう。

原さんのご冥福をお祈り致します。

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