1935年、14歳の時、「なりひら小僧 春霞八百八町」で映画デビューされ、太平洋戦争が始まると、歌手として陸軍の満州慰問団に参加された、森光子(もり みつこ)さん。終戦後、命からがら帰国されると、生活苦や結核など数々の困難に見舞われるのですが、1952年、大阪のラジオ番組「エンタツちょびひげ漫遊記」に出演されたことをきっかけに運が開けていきます。

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本名は?身長は?出身は?

森さんは、1920年5月9日生まれ、
京都府京都市のご出身、

身長153センチ、

血液型はB型、

学歴は、
京都府立第一高等女学校中退、
(現・京都府立鴨沂高等学校)

本名は、村上 美津、

だそうです。

芸姑の娘から映画女優へ

森さんは、京都祇園の芸妓だったお母さんに、
女手ひとつで育てられていたことから、(つまりは妾の子)

高校卒業後は、舞妓から芸妓になり、
ゆくゆくは、お母さんの実家である木屋町の割烹旅館、
「國の家」の女将になるはずだったのですが、

13歳の時、「松竹少女歌劇」の男役スターだった、
水の江瀧子さんに憧れて歌劇を志されます。

しかし、高校1年生の時には、
お母さんが亡くなってしまい、歌劇の夢は断念。

高校は1学期で中退され、やむなく、
いとこの時代劇スター、嵐寛寿郎さんの、
独立プロ「嵐寛寿郎プロダクション」に入られたのでした。

そして、1935年、14歳の時、
映画「なりひら小僧 春霞八百八町」で女優デビューすると、

1937年には、「嵐寛寿郎プロダクション」が閉鎖したため、
以降、森さんは、「新興キネマ」に移籍し、娘役として、
数多くの映画に出演されるのですが、

ほとんどが、狸物と言われる喜劇や二線級の映画で、
森さんは失望していったのでした。

(ちなみに、同時期、気鋭の映画監督だった森一生さんに、
 プロポーズされ婚約するも、その後破棄したことで、
 悪評が立ち始めたそうで、一時期、映画界を離れていたようです。)

歌手として慰問団~進駐軍キャンプ~結婚

こうして、1941年、森さんは、かねてからの夢だった、
歌って踊れるスターを目指し、上京されるのですが、

ちょうどこの頃、太平洋戦争(真珠湾攻撃)が勃発したことから、
陸軍の満州慰問団に歌手として参加することになり、

東海林太郎さんらの前座歌手として、ミスワカナさん、
玉松一郎さんらと中国戦線や南方戦線を巡回し、
行く先々で振り袖を着て歌を歌い、兵士たちを激励。

そして、終戦後の1945年、
満州が混乱するなか、命からがら帰国されると、
ようやく女優業を再開されたのですが、

女優の仕事はほとんどなく、森さんは、食べていくために仕方なく、
ジャズ歌手として進駐軍キャンプへ巡業されていると、

1947年、日系アメリカ人2世のアメリカ軍軍曹、
リチャード・ウエムラさんに見初められてプロポーズを受け結婚。

1週間後には、ウエムラさんがアメリカに帰国し、
森さんも後を追って渡米する約束だったのですが・・・

芸能界に未練のあった森さんは、
渡米の約束をキャンセルして日本に留まったのでした。
(以来、ウエムラさんとは二度と再会することはなかったそうです。)

肺結核から回復

しかし、1949年には、「肺結核」を患ってしまい、
芸能活動を休止せざるを得なくなります。

(森さんは、戦争中の1944年にも、
 慰問先の南京で「肺浸潤性疾患」を患われていました。)

また、仕事をやめて無職の森さんには、
当時、高額だった結核の特効薬である抗生物質、
「ストレプトマイシン」による治療が受けられなかったのですが、

京都の映画館で偶然出会った、
小学校の同級生で京都大学医学部卒の医師から、

闇で仕入れた「ストレプトマイシン」を、
「効果を確認するための実験」という名目で投与してもらい、
一命をとりとめられたそうで、

その後も、この医師とそのお母さんの好意により、
約3年半、京都市山科区のサナトリウムで療養し、
無事、回復されたのでした。

(ちなみに、森さんは誰とも連絡を取らず、ひっそりと、
 闘病生活を送られていたそうで、そのため、この頃、芸能界では、
「森光子は死んだ」とのうわさが流れていたそうです。)

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ラジオコメディ「エンタツちょびひげ漫遊記」~菊田一夫からスカウト

そして、1951年、森さんは、
ようやく大阪へ行き、仕事復帰の準備を始めると、

当初は、約3年半のブランクに加え、
一度は「死んだ」と噂された若手女優に仕事はなく、

「仕事無いですか?」と、
知り合いを渡り歩く日々を送られていたのですが、

そんな時、当時、NHK大阪放送局で、
芸能番組担当プロデューサーを務めていた、
富久進次郎さんから関心を持たれると、

1952年、新春から立ち上げ予定のラジオコメディー番組、
「エンタツちょびひげ漫遊記」に出演。

(ただ、それでも、ラジオドラマへの出演が決まったばかりの頃は、
 収入が不安定で、知人の裏千家千宗室夫人・千嘉代子さんに、
 秘書として雇ってもらい、生計を立てていたそうです。)

そして、1955年には、「朝日放送」と専属契約を結び、
ミヤコ蝶々さん、南都雄二さん、夢路いとしさん、喜味こいしさんらと、
ラジオドラマ「漫才学校」にレギュラー出演を果たされると、

その後、「ロート東西お笑い他流試合」の、
大阪方の司会役など(ラジオ)バラエティーでも活躍されるなど、
関西をホームグラウンドにラジオタレントとして人気者に。

(当時、大卒の初任給が1万2千円程度だったのに対し、
 森さんの契約金は、60~65万円と破格の待遇だったそうです。)

また、1956年には、在阪局制作のコメディー番組としては、
初の全国ネットとなったテレビ番組「ダイラケのびっくり捕物帖」
に出演されると、一躍、関東でも知名度がアップ。


中田ダイマル・ラケットさんと森さん。

そして、1958年、大阪、梅田コマ劇場の舞台、
「あまから人生」に出演された際、セリフのないシーンを、
アドリブで、当時のヒット曲4曲を、
1フレーズずつメドレーで歌ったところ、

偶然にも空港へのハイヤーを待つ間、劇場に入って来た、
「東宝」の重役で劇作家の菊田一夫さんの目に留まり、

「芸術座で芝居をやらないか」

と、誘われたのでした。

「森光子の死因は?何歳で?時間ですよ!80代でも舞台放浪記ででんぐり返し!」に続く

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