ニューヨークから帰国すると、ドサ回りの大衆劇団、蜷川幸雄さんのスタジオと、転々としていた阿南健治(あなん けんじ)さんですが、1989年、ついに、三谷幸喜さんという運命の人に出会うと、三谷さん率いる「東京サンシャインボーイズ」の舞台「天国から北へ3キロ」に出演。その後は、「東京サンシャインボーイズ」が解散する1994年まで、14本もの舞台に出演され、三谷作品になくてはならないバイプレイヤーとして活躍することとなったのでした。


「阿南健治の年齢は?若い頃は?少年時代は?カウボーイ?
ニューヨーク生活?」
からの続き

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大衆演劇の役者となるも・・・

ニューヨーク滞在中に「渡辺音楽学院」時代の先輩から、
誘いの手紙を受け取った阿南さんは、直ちに帰国すると、

帰国後1週間ほどで大衆演劇の役者として、
山梨県下部温泉の舞台に立ち、チャンバラ芝居をスタート。

大衆演劇時代の阿南さん

しかし、1ヶ月ごとに引っ越しという、
ドサ回りの日々を続けているうちに、

「こんなんじゃない、芝居作りとはこんなもんじゃない」

と、思うようになったと同時に、集団生活や団体行動に嫌気が差し、
自由になりたいとの思いから、東京での休暇の際、
劇団から姿をくらましてしまいます。

(しばらくして、座長に見つかってしまったそうですが、
 徐々に大衆演劇の世界からは離れていったそうです。)

蜷川幸雄のスタジオにも所属

こうして、またしても、
新たな道を模索し始めた阿南さんは、

オーディション雑誌で、
蜷川幸雄さんの舞台「タンゴ冬の終わりに」の再演で、
群衆を募集しているのを見つけ、応募されると、合格。

(この当時、阿南さんは蜷川さんのことを知らなかったそうです)

そして、この公演に出演された後、
「蜷川スタジオ」の劇団員募集があったことから、
オーディションを受けると、これまた合格。

蜷川幸雄さん演出「貧民クラブ」出演当時の阿南さん(右端)

その後、阿南さんは、

その頃の私は、現代演劇、その他、何も知らなかったし、
何も考えてもいなかったからか、

全く訳が判らなくても、なんとかこの中で自分をアピールしようと、
蜷川氏の前で見せるエチュードなる稽古を必死にやっていた。

そうで、そんな努力が実り、ついには、
あるお芝居のオーディションに合格し、
良い役をもらうことができたのですが、

なんと、稽古場に行く途中、
不運にもバイクで事故を起こしてしまって舞台を降板。

(阿南さんは、その役をあまり理解できないまま演じられていたため、
 稽古中、怒った蜷川さんに缶コーヒーを投げつけられそうで、そのため、
 余計に頑張らなければと、考え、悩みながらバイクに乗っていたところ、
 車にぶつかってしまったそうです。)

阿南さんはその後も、
「蜷川スタジオ」に在籍されるのですが、
以降、群衆の役しか回ってこなかったことから、

またしても、集団生活や団体行動に嫌気が差しはじめ、
「蜷川スタジオ」も2年あまりでフェードアウトしてしまったのでした。

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三谷幸喜との出会い~「東京サンシャインボーイズ」

そんな阿南さんは、「蜷川スタジオ」を辞める少し前から、
あらゆる映画監督に、自分を使ってくれるよう手紙を書き送られており、

その中で、映画監督の林海象さんが、会ってくれたばかりか、
ある映画に出してくれると約束もしてくれたそうで、
その日を待つ日々が始まったのですが、

(その間に、別の映画で小さな役をくれたことはあったそうです。)

そんな時、友人だった梶原善さんから、
おもしろい人がいると、三谷幸喜さんを紹介してもらうと、
三谷さんからお芝居に出て欲しいと誘われます。

ただ、その時は、林海象さんの映画に出演できるかどうかで、
頭がいっぱいだったうえ、三谷さんのことは全く知らなかったそうで、

(当時、三谷さんが率いる劇団「東京サンシャインボーイズ」は、
 まだ、観客動員数が500人足らずの小さな劇団でした)

まず先に台本を読ませてほしいと言って、
台本を読ませてもらうと、とてもおもしろかったにもかかわらず、
三谷さんの誘いを断わってしまうのですが、

それでも、その後、再び三谷さんから誘われ、
「東京サンシャインボーイズ」に入られると、

1989年「天国から北へ3キロ」を皮切りに、最終的には、
14本もの「東京サンシャインボーイズ」の舞台に出演。

以降、1994年に「東京サンシャインボーイズ」が解散した後も、
三谷さんからの信頼は厚く、三谷作品に必要不可欠な存在として、
テレビドラマや映画に起用され続けるようになったのでした。

(最前列左から)佐藤B作さん、宮地雅子さん、伊藤俊人さん、
(2列目左から)近藤芳正さん、阿南さん、相島一之さん、西村雅彦さん、 
(3列目左から)西田薫さん、梶原善さん、小原雅人さん、
(4列目左から)甲本雅裕さん、野仲イサオさん、小林隆さん。

(1989年には、林海象さんの映画にも、
 無事、出演を果たされています♪)

ちなみに、阿南さんは、自身のHPで、

この時代からである。ちゃんとまともに役を貰い、
芝居というものを真剣に考え始め、実感し充実し、活き始めたのは。

やはり、役者は芝居とまともな役さえあれば生きていける。

それも、面白い才能に触れていれば、
より一層刺激され、楽しさ倍増であった。
私の二年周期も夢中の中、忘れられていくだけであった。

バイトをしながらも、コンスタントに年二回から三回の公演をし、
三谷氏から与えられる役を、何とか、
三谷氏のイメージを超えようと、負けまいと^^、
月日を重ねていった、そんな楽しき時代であった。

と、振り返っておられ、三谷さんに出会っていなかったら・・・
と、感謝の念を綴っておられました。

さて、いかがでしたでしょうか?

少年時代から、もがいては行動、もがいては行動して
ついに、三谷幸喜という理解者にたどり着いた阿南さん。

見ようによっては、こらえ性がないようにも見えますが、
嫌なことを我慢し続けることだけではなく、
自分の好きなことを追求し、行動し続けるのもまた努力。

だからこそ、唯一無二の、
「阿南節(ぶし)」が作り上げられたともいえるでしょう。

これからも、「阿南節」の炸裂、
楽しみにしています!!

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