中学時代からギターを練習し始め、高校2年生の時には、フォークグループ「ロック・キャンディーズ」を結成して、神戸や大阪で絶大な人気を誇った、谷村新司(たにむら しんじ)さん。その後、大阪万国博覧会で細川健さんと運命的な出会いをすると、北米横断コンサートツアーに参加されます。


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年齢は?出身は?身長は?本名は?

谷村さんは、1948年12月11日生まれ、
大阪府大阪市住之江区のご出身、

身長172センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
桃山学院大学中退、

趣味は、
読書、絵画、陶芸(備前焼)、ゴルフ 、

ちなみに、谷村新司は本名で、
愛称(別名義)はチンペイです。

(高校時代、シモネタで有名だった野末陳平さんに、
 キャラが似ており、名付けられたそうです)

フォークグループ「ロック・キャンディーズ」で人気

谷村さんは、小学校低学年の頃は、
学級委員長やリレーのアンカーを務めるなど、
クラスの人気者で、女の子にもモテたのですが、

小学校4年生の頃、食べ過ぎが原因で肥満体型となると、
そのせいで、性格も暗くなってしまいます。

ただ、中学生の時、映画「渡り鳥シリーズ」で、
ギターを弾く小林旭さんを見て、

楽器を持つとモテるんじゃないか

と思い、必死でギターの練習をされると、

1965年、高校2年生の時には、
当時、日本に入ってきたアメリカのフォークバンド
「ピーター・ポール&マリー」を真似た、男性2人女性1人の、
フォーク・グループ「ロック・キャンディーズ」を、
山本峯幸さん、島津ちず子さんとともに結成。

関西を中心にバンド活動を展開すると、
たちまち、大阪と神戸で絶大な人気を誇り、
神戸のアマチュアバンドサークル「ポート・ジュビリー」
の看板グループとして活躍されたのでした。

(「ロック・キャンディーズ」とは「角砂糖」という意味で、
  音楽のロックとは関係ありません)

ちなみに、バンド結成当初は、「ピーター・ポール&マリー」の、
コピーをカバーされていたのですが、結成1年目から、
谷村さんはオリジナルの曲を作り始めたそうで、

1968年には、ファーストシングル「どこかに幸せが」で、
レコードデビューも果たされており、

「どこかに幸せが」
(左から)島津ちず子さん、山本峯幸さん、谷村さん。

谷村さんは当時を振り返り、

テレビで流れていた歌謡曲とは違うフォーク・ソングが、
日本でも紹介され始めて、だんだん、
身近に感じるようになっていった体験が、
団塊の世代には共通してありますよね。

ギターをたどたどしく弾きながら、フォーク・ソングを、
自分達の言葉、自分達の歌で表現していくことができたら、
ステキだよねっていう意識が生まれてきた頃といいますか。

それが1965年くらいの出来事で、僕にとっては、
高校生から大学生にかけて自分なりの考えでバンドを作り、
オリジナルというものを作り始めたあたりです。

と、語っておられました。

大阪万国博覧会

そして、1970年、
「大阪万国博覧会」が開催されると、

「ロック・キャンディーズ」は、
アマチュアの団体(全日本学生音楽連盟)の中から選ばれ、
カナダ館の水上ステージに立たれます。

谷村さんは、これまで映画の中でしか見たことのなかった、
金髪で青い目をした外国人を初めて見て衝撃を受け、

外国人というだけで、たどたどしい英語で話しかけ、
サインをもらって喜び、外国人を前に歌える、
というだけで興奮されたそうで、

(谷村さんだけではなく、当時、日本で外国人を見ることは、
 とても珍しかったため、万博会場では多くの日本人が、
 そのようなことをしていたそうです)

世界中の人たちの前で歌えることに、
幸せを噛みしめられたのですが・・・

「ロック・キャンディーズ」
(左から)山本峯幸さん、島津ちず子さん、谷村さん。

細川健との出会い

歌い終わった谷村さんたちの楽屋に、
バンドを仕込む裏方の仕事をしていた、
細川健という男性がやって来て、

初対面にもかかわらず、突然、

すまん!
お前らをだましてギャラをピンハネして、
軽トラックを買おうとしていた。

と、早口に悪だくみを告白し、謝られると、

歌ってええなぁ……
お前たちの歌をアメリカ人にも聴かせたろやないか!

と言われたそうで、

谷村さんは、それを聞いて、

こいつ、おかしいんと違うかな

と思われたものの、決して嫌な気はせず、
むしろ、

こんなふうに正直に自分の本音を口にするやつって、
今まで周りにいなかったな。とてつもなく魅力的なやつだ。

と好感を持ち、縁を感じられたことから、
二つ返事でOK。

数カ月後には、カナダのバンクーバーから、
北米横断コンサートツアーをスタートさせたのでした。

(細川さんは、後に、谷村さんらが結成するバンド「アリス」
 の所属事務所「ヤングジャパングループ」を設立。
 音楽制作者連盟の理事長も歴任されました。)

ちなみに、谷村さんは、この時のことを振り返り、

無茶といえばこんな無茶苦茶なことはない。
「お金はどうするの?」とか、そんなことも何も考えないまま、
「よっしゃ!」と思って飛び出して行きましたから。

もう怖いもの知らずでしたね。
とりあえず、カナダのバンクーバーから北米に入れば、
あとはどうにかなるだろうという感覚でした。

と、明かされています。

ジャニス・ジョプリンの演奏に衝撃を受ける

こうして、全40日間、カナダ、アメリカの各地から、
メキシコ、ハワイと回るツアーが始まると、

谷村さんたちは、ニューヨークのシェイ・スタジアムで、
女性ロックシンガーのジャニス・ジョプリンの、
生演奏を聴く機会に恵まれるのですが、

在りし日のジャニス・ジョプリン

アコースティックなサウンドをパーカッションで演奏する、
そのグルーヴ感のすごさに鳥肌が立つほどの衝撃を受け、

(当時、アコースティック系バンドの中には、
 ビート感のあるグループがいなかったそうです)

同時に、このような楽曲に新鮮さを感じ、
これを日本語にできないだろうかと考え始めたそうで、

後に、谷村さんは、
ジャニス・ジョプリンを生で見たことについて、

当時彼女の生演奏に触れることのできた数少ない日本人として幸運

と、語っておられました。

(ジャニス・ジョプリンは同年、27歳の若さで他界されています)

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プロになることを決意

一方、メキシコでは、
ついに資金が尽きてしまうのですが、

メキシコで友達になった学生達が

お前らは絶対夢をなくしちゃダメだ

と言ってカンパしてくれたそうで、

谷村さんは、そのお金を胸に抱いて、細川さんとメキシコの夜の街を、
泣きながらトボトボとホテルまで歩いている道すがら、

プロになりたい

と、強く思われ、

細川さんも、プロを育てる事務所を作ろうと、
決心されたそうで、

ツアーが終わって帰りの飛行機の中で、
お二人はお互いの意思を確認。

羽田空港に着陸すると、お二人は、
プロへの道に向けて動き出されたのでした。

「谷村新司のアリス時代は?堀内孝雄!矢沢透!冬の稲妻!チャンピオン!」に続く

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