みのもんたの若い頃は?本名は?年齢は?セイヤング?

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大学卒業後、文化放送に入社すると、24歳の時、深夜ラジオ番組「セイ!ヤング」のパーソナリティーに抜擢され、一躍人気を博した、みのもんたさん。しかし、その後、社内イジメにあい、28歳の時には、「セイ!ヤング」を降板させられると、なんと営業部に配置転換させられてしまいます。


年齢は?出身は?身長は?本名は?

みのさんは、1944年8月22日生まれ、
東京都世田谷区祖師谷のご出身、

身長167センチ、

血液型はA型、

本名は、
御法川 法男 (みのりかわ のりお)、

学歴は、
世田谷区立祖師谷小学校
⇒立教中学校(現:立教池袋中学校)
⇒立教高等学校(現:立教新座高等学校)
⇒立教大学経済学部卒業

趣味は、
食べ歩き、飲み歩き、庭いじり、

特技は、
ゴルフ、スキー、テニス、乗馬、

だそうです。

長嶋茂雄に憧れて

みのさんは、幼い頃、
自宅の離れに下宿していた俳優の森繁久彌さんから、
森繁さんの出演する映画のチケットをもらい、
よく映画を観に行かれていたそうで、

小学校に入学した頃は、
映画やお芝居に興味を持ったそうです。

しかし、しばらくすると、当時、
立教大学硬式野球部で活躍していた「立教三羽烏」
(長嶋茂雄さん、杉浦忠さん、本屋敷錦吾さん)へ憧れ、
立教中学校(現・立教池袋中学校)に進学。

(左から)本屋敷錦吾さん、杉浦忠さん、長嶋茂雄さん。

その後、立教高等学校(現・立教新座高等学校)、
立教大学経済学部とエスカレータ式で進学されると、

なぜか、大学時代には、放送研究会に所属し、
ラジオドラマを制作されています。
(ちなみに、高校時代は演劇部に所属)

徳光和夫に感化されアナウンサーに

そんなある日のこと、みのさんは、
同じ放送研究会出身で、みのさんよりも4年先輩の、
徳光和夫さんがアナウンサーになったことを知ると、

研究会の仲間とともに日本テレビに、
徳光さんを訪ねます。

すると、徳光さんから、

これからはテレビの時代だ。アナウンサーは最高だぞ。
君たちはそういう志をもってないのか?

と言われ、共感。

(当時は、東京オリンピックの影響で、
 一般家庭にテレビが普及し始めていた時代でした)

また、スタジオ見学に連れて行ってもらい、
美空ひばりさんなど当時の大スターを、
間近で見られたことにも大いに感激。

ぜひ、徳光さんがいる、
日本テレビを受験しようと思われたのでした。

ただ、日本テレビは新入社員を採用していなかったそうで、
大学卒業後の1967年、文化放送に入社されたのでした。

(第一志望はTBS(東京放送)だったそうですが
 採用試験で不合格となったそうです)

徳光和夫さんとみのさん。

「セイ!ヤング」で人気パーソナリティに

こうして文化放送に入社したみのさんは、
当初は、研修として、同じフジサンケイグループの、
産業経済新聞社(産経新聞社)に通い、

新聞原稿をラジオニュース用の原稿に、
書き換える仕事をされていたのですが、

まったく使い物にならず、
「ニュースには向かない」と言われてしまいます。

それで、芸能を担当するようになり、
深夜ラジオ放送「ゲリラでいこう」で、
初めてのレギュラー番組を担当すると、

たった15分という短いトーク番組だったにもかかわらず、
ぶっつけ本番のトークが評判となったそうで、

1969年、24歳の時には、深夜ラジオ番組、
「セイ!ヤング」の初代パーソナリティに抜擢。

すると、「セイ!ヤング」は、同じ時間に放送されていた裏番組
「オールナイトニッポン」「パックインミュージック」と共に、
深夜放送全盛の時代を支える人気番組へと成長。

みのさんも、一躍、
人気パーソナリティーとなられたのでした。

「セイ!ヤング」のパーソナリティ勢揃い!(左から)土居まさるさん、
はしだのりひこさん、みのさん、かまやつひろしさん、落合恵子さん。

そして、みのさんは、「セイ!ヤング」で活躍される一方で、
洋楽ランキング番組「オール・ジャパン・ポップ20」
(後の「全国ポピュラーベストテン」)や、

「みのもんたのワイドNo1」
「ダイナミックレーダー~歌謡曲でいこう!~」

など、次々とラジオ番組で、
パーソナリティーを務められると、

フジテレビ「オールスター水泳大会」では、司会として人気を博し、
ついには、アナウンス部長まで登り詰めたのでした。

「セイ!ヤング」を降板させられ営業部へ~文化放送を退社

ところが、1973年、28歳の時には、番組の若返りを理由に、
「セイ!ヤング」のパーソナリティを降板させられると、
人事異動で、まさかの営業部へ配置転換。

営業部では、ラジオのスポンサー企業の販売促進に協力するようにと、
スーパーでの店頭販売をさせられるのですが、

ラジオの人気パーソナリティーとして活躍したみのさんには、
プライドを引き裂かれる日々だったそうで、

そのため、仕事に身が入らず、商品は全く売れず、
営業成績の悪さを指摘される悪循環。

しまいには、

アナウンサーで調子こいてるからこうなんだ

と、パーソナリティーだった頃を疎まれて、
陰口が聞こえてくることもあったそうで、

このような生活を6年ほど続けると、
ついには、社内に自分の居場所はないと感じ、

1979年、34歳の時、
文化放送を退社されたのでした。

水道会社で営業の日々

その後、みのさんは、お父さんが経営されていた、
水道メーター製造販売会社「日国工業(ニッコク)」
に入社されると、10年間全国を営業周りされたそうで、

みのさんは、その当時を振り返り、

僕は幸か不幸か30代前半で文化放送を辞めざるを得なくなって、
当時は従業員18人の「ニッコク」の営業で10年間走り回りました。

今でもメーターを自分で組み立てられるし、図面も描ける。
上場会社は楽に仕事をとっていくのに、
こちらは頭下げてペコペコして……「何くそ!」と思いました。

銀行にお金を借りるために逗子にあった自宅を担保に入れて、
全てをなくすかもしれないと思ったこともあります。

その借金を返し終えた時の登記簿は、
今でも記念にとってある。

と、明かされています。

「プロ野球ニュース」キャスターで再ブレイク

そんな中、みのさんは、フジテレビに声をかけられ、
1980年、「プロ野球ニュース」の、
週末版のキャスターとして出演されると、

その後、みのさんの語りによる、
「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」が、
同番組の看板企画として定着するほどの人気に。

「プロ野球ニュース」より。

ついには、不定期ながらも独立番組となり、
同時に、みのさんもキャスターとしてブレイク。

そして、「なるほど!ザ・ワールド」「オールナイトフジ」にも出演され、
コミカルなサブ司会者として、知名度を上げていかれると、

1989年、45歳の時には、
「午後は○○おもいッきりテレビ」の司会者に抜擢。

すると、みのさんのコミカルな語り口調が人気を博し、
番組は高視聴率を記録。

みのさんは、たちまち、
人気司会者へと登り詰めたのでした。

「みのもんたの現在は?セクハラ?次男逮捕?水道メーター社長?」に続く

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