中卒で地元の北海道虻田郡から札幌に出ると、ヘルスセンターやナイトクラブで才能を開花させ、ついには、バーニングプロの周防郁雄社長からスカウトされた、細川たかし(ほそかわ たかし)さん。そして、翌年のデビューシングル「心のこり」で、たちまち大ヒットを記録します。


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年齢は?出身は?身長は?本名は?

細川さんは、1950年6月15日生まれ、
北海道虻田郡真狩村字桜川のご出身、

身長173センチ、

血液型はA型、

学歴は、
真狩村立知来別小学校
⇒真狩村立真狩中学校卒業

趣味は、
ゴルフ、スキー、

また、細川さんは、民謡三橋流の名取であり、
「三橋美智貴」(みはし みちたか)とも名乗られています。

ちなみに、本名は、
細川貴志(読み同じ)です。

実家は農家

細川さんは、実家が農家で、
じゃがいもの生産をしていたことから、

小学生の時には、学校が終わると、
畑仕事の手伝いをさせられていたのですが、

トラクターがない時代だったため、
土を耕してたね植えをし、できたじゃがいもを掘り起こして収穫、
その後、出荷場へと運ぶ作業をすべて手作業でやっていたそうで、
腰が痛く、嫌で嫌でしょうがなかったそうです。

井沢八郎の「北海の満月」で歌手を目指す

そんな細川さんは、中学生の時には音楽に目覚めて、
友達とバンドを組み(細川さんはドラムを担当)、

家の仕事を手伝わなくてよい日は、細川さんの家の納屋に集まって、
「ベンチャーズ(The Ventures)」(アメリカのインストゥルメンタルのバンド)
などを演奏するほか、

演歌では、井沢八郎さんの「北海の満月」(1965年)が好きで、
どうしても農家を継ぐのが嫌だったこともあり、
歌手を目指そうと思うようになったのでした。

中学時代の細川さん

(中学の卒業アルバムには、「北海の心 満月の姿 演歌!! 細川貴志」
 と、つづられていたそうです)

若い頃は?~札幌で整備工&バンドボーイ

こうして、細川さんは、ご両親に、

どうしても札幌へ行きたい、できれば歌手になりたい

と必死に頼み込み、なんとか納得してもらうと、

 (細川さんは、5人兄弟の末っ子ですが、お姉さんもお兄さんも、
  誰も農家を継ぎたがらず、細川さんが継がなければ、
  農家をやめなければならない状況だったそうですが、
  最終的には叔父さんが農家を継いだそうです)

中学卒業後の1966年には札幌に行き、
自動車整備工として住込みで働きはじめることに。

すると、ほどなくして、整備工場の近くに住んでいた人が、
ギターをされていたそうで、その人の紹介でバンドボーイになり、
昼は整備工、夜はバンドボーイとして働き始めるのですが、

(バンドボーイとは、楽器の手配、積み込み、積み卸しなど、
 ミュージシャンのサポート業務をする人のこと)

昼間は眠くて眠くて仕方なく、ある日、ついに工場長から、

工場に残るか、夜の仕事をとるか、どちらかにしろ。

と、言われ、工場を辞めることになったのでした。

ヘルスセンターで司会&歌~民謡も

とはいえ、バンドボーイだけでは食べて行けず、
毎日、インスタントラーメンでしのぐ日々をしばらく過ごしていると、

細川さんが歌手志望であることが周囲の人に伝わり始めて、
お店の開店前やお客さんのいない時などに、
従業員の人たちを前に歌わせてもらえるようになり、

やがては、ヘルスセンター(現在の健康ランド)で、
歌や司会の仕事(しまいには演出まで)が出来るように。

そして、当時は民謡ブームだったため、民謡も歌うようになると、
知らぬ間に上達していったそうで、

細川さんは、当時を振り返り、

(整備工場を)やめたのはいいけれど、
住み込みだったのでアパートも探さなくてはならないし、お金は無いし。

大変だったけど、すごく楽しかったし、恐いものはなかった。

と、語っておられました。

すすきのナイトクラブ~バーニング周防社長からスカウト

そして、札幌へ来て、
3年が過ぎた1969年あたりから、

細川さんの評判を聞きつけた、札幌、すすきのにある、
いくつかのナイトクラブから声がかかるようになって、
何件かのお店を掛け持ちするようになり、

北島三郎さん、森進一さん、五木ひろしさん、沢田研二さんなど、
当時のヒット曲を次々と歌われるようになると、

雰囲気が森進一さんに似ていたため、

「すすきのの森進一」

と、すすきので引張だことなられたそうで、

すすきのナイトクラブ時代の細川さん

1974年には、東京の「バーニングプロダクション」の、
社長、周防郁雄さんからスカウト。

ただ、当時、細川さんは、
結婚して子供が生まれたばかりだったため、
上京することを悩んでいると、

奥さんから、

後悔しないように行ってくれば

と、背中を押されたそうで、

一年やってダメだったら元のクラブ歌手でいいや

と、上京する決意をされたのでした。

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デビュー曲「心のこり」が大ヒット

すると、1975年4月にリリースした、
デビューシングル「心のこり」が、
いきなりミリオンセラーを記録する大ヒット。
「私バカよね~」という歌詞が一大ブームに)

「心のこり」

この年、「第6回日本歌謡大賞」「放送音楽新人賞」
「第17回日本レコード大賞」「最優秀新人賞」ほか、
新人賞を多数受賞され、

新人歌手としては異例の、「NHK紅白歌合戦」(第26回)にも、
初出場を果たされ(しかもトップバッター)、
細川さんは、たちまちスターへと登り詰めたのでした。

ちなみに、細川さんいわく、

前の年に上京して、10曲ぐらいレコーディングしましてね。
その中で「心のこり」が一番良いからってことになって、

最初は「私バカよね」っていうタイトルだったのですが、
コロムビアレコードが社運をかける大型新人が、
「私バカよね」ではかわいそうだと言うことになり、

なかにし礼先生(作詞を担当)と、
コロムビアの泉さんというディレクターが相談して、
「心のこり」ってつけてくれました。

とのことです。

(実は、細川さんは、この前の年の1973年に、シングル「さい果て島未練」
 をリリースしているのですが、自主制作盤であることからか、
 細川さんの公式HPでもデビュー曲は「心のこり」となっています。)

「さい果て島未練」

しかし、その後は、

1975年4月「みれん心」
1976年2月「女の十字路」
     5月「六つの星」
     7月「置き手紙」
     10月「北の旅愁」

1977年4月「おんなの春」
     9月「ひとり旅」
1978年3月「遠い灯り」
     7月「ぬくもり」
     10月「港夜景」

1979年9月「ゆきずり」
1980年4月「一緒に暮らそう」
     6月「しあわせ音頭」
     9月「ほたる草」
1981年2月「いつかどこかで」
     7月「女ごころ」

と、立て続けにシングルをリリースするも、
一向にヒットすることはなく、低迷してしまったのでした。

「細川たかしが萩本欽一と?8時だよでケガ!欽ドコから北酒場!レコ大3冠!」に続く

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