坂本龍一のYMO散開理由は?戦メリで俳優?ラストエンペラーでアカデミー賞!

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1978年、細野晴臣さんに誘われて、高橋幸宏さんと3人で「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」を結成された坂本龍一(さかもと りゅういち)さんは、「YMO」が爆発的な人気を博したことで、一躍トップアーティストに。しかし、早くも、1983年には、「散開(解散)」されると、ピンでも「戦場のメリークリスマス」「ラストエンペラー」で映画音楽を担当し、「ラストエンペラー」では、「アカデミー賞」作曲賞を受賞されるなど、映画音楽作家としての地位を確立されます。




「坂本龍一の幼少期から若い頃は?年齢は?細野晴臣と高橋幸宏との出会いは?」からの続き

「YMO」結成


1978年2月、細野晴臣さんのソロアルバム、
「はらいそ」の収録に参加された坂本さんは、


はらいそ

同じく収録に参加されていた高橋幸宏さんと、
この時、初めて顔を合わせるのですが、

後日、新しいバンドの構想を温めていた細野さんに、
高橋さんとともにこのバンドへと誘われると、

これまでバンドをやったことがなかったため、
不安を抱えながらも賛同。

一方、高橋さんも、ほかのバンドで苦労していたこともあり、
二つ返事でOKされ、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」
が結成されたのでした。


ソロアルバム「千のナイフ」でデビュー~「YMO」散開理由は?


そして、坂本さんは、「YMO」に先駆け、同年10月、
電子音楽を駆使した実験的なソロアルバム、
「千のナイフ」をリリースしてソロデビューされると、


千のナイフ (SACD ハイブリッド)

(初回プレスは約400枚だったのですが、そのうち、
 200枚が返品され、当時は見向きもされていなかったようです)

同年11月25日には、「YMO」として、
坂本さんの「千のナイフ」の制作手法を取り入れた、
デビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を、
「アルファレコード」よりリリース。


イエロー・マジック・オーケストラ

すると、「アルファレコード」は、
アメリカの「A&Mレコード」と業務提携していたため、
たちまち海外で人気に火がつき、

その後、国内でも、テクノブームを巻き起こし、
一躍、「YMO」はトップアーティストの座に昇り詰めたのでした。

しかし、そんな人気とは裏腹に、テレビに出演したことで、
顔が知られて外を歩けなくなったこと、人目にさらされ続けたこと、
多忙などが重なって、ストレスで心身ともに参ってしまい、

音楽的には、試みをやり遂げたという実感もあったことから、
1983年、「散開(解散)」となったのでした。


映画「戦場のメリークリスマス」で俳優と映画音楽


ところで、坂本さんは、「YMO」が解散する少し前、
映画監督の大島渚さんに、映画「戦場のメリークリスマス」に、
俳優として映画出演のオファーを受けているのですが、

坂本さんは、

こんな演技素人の僕が役者を

と、驚きながらも、とっさに、

音楽もやらせてください

と、出演の条件に映画音楽の制作を提示されたところ、

通常、音楽家が映画にオファーすることはできないのですが、
大島さんは、その場ですぐに、

ハイ、お願いします

と、このオファーを承諾。


「戦場のメリークリスマス」より。坂本さん(左)とデビット・ボウイさん。

実は、坂本さんは、これまで、
映画音楽は一度もを手がけたことはなかったのですが、
なぜかできそうな自信があったそうで、

その後、シンセサイザーへの打ち込みの作業を始めると、
2週間ほど経った後、突然意識がなくなり、

目が覚めた時に譜面を見ると、
(ハーモニーの調整はあったものの)
譜面がすでに書いてあったそうで、

坂本さんは、

まさに自動筆記みたい、自分が作った気がしないんですよ

と、天から降ってきたような制作だったことを、
明かされています。


戦場のメリー・クリスマス

映画「ラストエンペラー」でアカデミー賞作曲賞


その後、「戦場のメリークリスマス」が、
「カンヌ国際映画祭」に出品されたことで、
坂本さんは、フランスのカンヌを訪れるのですが、

そこで、イタリアの映画監督、
ベルナルド・ベルトルッチさんと知り合うと、

3年後の1986年には、映画「ラストエンペラー」に、
俳優として出演依頼を受けます。

そして、名だたるプロばかりの中、何度もダメ出しをされながら、
北京、大連、長春、と続く撮影に、なんとかついていかれていたのですが、


「ラストエンペラー」より。甘粕正彦に扮する坂本さん。

そんな撮影の最中、突然、ベルトルッチ監督から、

溥儀(ふぎ)が満州皇帝として即位する場面に、
生の音楽を入れたいから「戴冠(たいかん)式の音楽を、すぐに作れ」

と、言われたそうで、

坂本さんは、はじめは、俳優としての参加だったことや、
中国の音楽をほとんど聴いたことがなかったため困惑されるも、
ここで引き下がりたくはなかったため、

せめてピアノが欲しいと、旧満州映画協会から、
ピアノを借りてなんとか作曲されるのですが・・・

撮影が終了した半年後には、今度は、「ラストエンペラー」の音楽を作れと、
これまた急な依頼が来たそうで、おまけに制作期間はたったの1週間。

そこを何とか頼み込んで2週間に伸ばしてもらい、
監督の無茶ぶりに応えられると、

翌年の1987年には、この映画で、
「ゴールデングローブ賞」最優秀作曲賞(日本人初)と、
「アカデミー賞」作曲賞受賞という快挙。


「第60回米アカデミー賞(1988年)」で作曲賞を受けた、
(左から)坂本さん、デビッド・バーンさん、スー・ソンさん。(


これで、坂本さんは、映画音楽作家として、
世界中にその名を知られることとなり、
以後、映画音楽作家としての地位を確立されたのでした。

また、坂本さんは、そのほか、
アーティストやイベントのプロデュース、
CMソング制作等の音楽活動はもちろんのこと、

バラエティ番組でダウンタウンとコント、
さまざまな社会貢献活動への参加ほか、
多方面で活躍されています。

「坂本龍一はガンだった!元嫁は矢野顕子!娘は坂本美雨!他の子供は?」に続く



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