デビュー後、力道山さんの付き人になるも、力道山さんから壮絶な虐待を受け続けていたという、アントニオ猪木(アントニオ いのき)さんは、やがて、我慢の限界に達し、「日本プロレス」を辞めることを考え始めるのですが、そんな矢先の1963年、力道山さんが突然死去。翌年1964年には、当時、出世の切符だった海外修行が実現します。

「アントニオ猪木は力道山から壮絶な虐待を受けていた!」からの続き

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力道山が死去

あまりに酷い力道山さんからの仕打ちに耐えかねた猪木さんは、やがて、「日本プロレス」を辞めようと考えるようになったそうですが、

そんな矢先の1963年12月15日、力道山さんが、暴力団組員とのトラブルで刺された傷がもとで亡くなり、

(力道山さんによって日系ブラジル人として売り出されていたため)俺は日系ブラジル人と言われてましたが、れっきとした神奈川県出身の日本人です。

力さんの付き人になってからは何時も力さんに殴られるので、このままでは馬鹿になってしまうと思って、(日本プロレスを)辞めようと思ってました。

でも力さんが亡くなったので、これからは(日本プロレスの2代目社長に就任した)豊登さんについて行きます。

と、「日本プロレス」でプロレスを続けることを決意します。

アメリカへ武者修行

とはいえ、同期のジャイアント馬場さんはというと、すでに海外で活躍しており、猪木さんは、遅れをとっていることに焦りを感じていたそうですが、

アメリカのプロレスラーのサニー・マイヤースさんに実力を認められて、

アメリカでもトップを取れる

と、アメリカへ行くことを誘われ、

折よく、以前から目をかけてくれていた、先輩レスラーの豊登道春(とよのぼり みちはる)さんが、力道山さん亡き後の「日本プロレス」の社長に就任していたことから、豊登さんにそのチャンスを与えられ、翌年1964年、念願の渡米を果たしたのでした。

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アメリカ修行中には「NWA認定世界タッグ選手権」も獲得

こうして、渡米した猪木さんは、「トーキョー・トム」「リトルトーキョー・ジョー」「カンジ・イノキ」など、様々なリングネームを使って、西海岸、中西部、南部と転戦すると、

やがて、当時、無法プロレス地帯と言われていたテキサス州に乗り込んで、デューク・ケオムカと組み、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックスを見事に破って当地のタッグタイトルを獲得。


当時のポスターより。

その後は、テネシー州に転戦すると、今度はヒロ・マツダとタッグを組み、「NWA認定世界タッグ選手権」も獲得と、活躍したのでした。

そして、海外修行を始めて2年あまりが過ぎた1966年3月10日、猪木さんは、ジャイアント馬場さんや吉村道明さんらと共に合同練習をするため、ハワイに移動していたのですが、突然、豊登さんが猪木さんを訪ねてきたといいます。

「アントニオ猪木は昔「東京プロレス」に入っていた!」に続く

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