アントニオ猪木!モハメドアリと異種格闘技!引退試合の対戦相手は?結果は?

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「日本プロレス」を追放されるも、「新日本プロレス」を立ち上げ、大物日本人対決や遺恨試合、異種格闘技戦などで観客を魅了し、1980年代には、「タイガーマスク」の登場で一大プロレスブームを巻き起こした、アントニオ猪木(アントニオ いのき)さん。しかし、1983年8月11日、突然、「タイガーマスク」から「新日本プロレス」に、内容証明書付きの契約解除通告書が届きます。


「アントニオ猪木は昔東京プロレス?ジャイアント馬場と?日本プロレス追放?」からの続き

「新日本プロレス」設立~モハメド・アリと異種格闘技戦

「日本プロレス」を追放されてしまった猪木ですが、
1972年1月、「新日本プロレス」を旗揚げされると、

当初は、テレビ放送がなかったことや、「日本プロレス」の妨害で、
外国人レスラー招聘ルートが閉ざされるなど、苦しい経営を強いられるのですが、

翌年の1973年に、NET(現・テレビ朝日)がバックにつき、
テレビ放送が開始されると、

「国際プロレス」のエース「ストロング小林」との大物日本人対決、
「日本プロレス」時代の先輩である大木金太郎さんとの遺恨試合などの、
これまでタブーとされてきた試合や、

ストロング小林さん(左)と猪木さん。

無名の外国人選手で、後にスターとなる、タイガー・ジェット・シン、
スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを招聘して、
奇抜で迫力ある試合を展開し、多くのファンを魅了。

ハルク・ホーガンさん(左)と猪木さん。

そして、ついに、「WWWF」(アメリカ合衆国のプロレス団体)
とも提携して、多数の外国人スターを呼べるようになると、

「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」

のスローガンを掲げ、

1976年には、実際に最強を証明するため、

プロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、
モハメド・アリさんとの格闘技世界一決定戦、

モハメド・アリさん(左)と猪木さん。

「熊殺し」の異名をとる、
空手家ウイレム・ルスカさんとの試合など、

猪木さん(左)とウイレム・ルスカさん。

異種格闘技戦を成功させ、
ますます、人気を高めていったのでした。

タイガーマスクの登場で黄金時代

また、1980年代に入り、
初代「タイガーマスク」(佐山聡さん)が登場すると、

「新日本プロレス」伝統の「ストロングスタイル」をベースに、
全米プロ空手流の打撃技と、ルチャリブレ(メキシコ式プロレス)
の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、

たちまち子どもたちを虜にし、毎週金曜日夜8時のテレビ放送では、
視聴率が20%を超える大ヒットを記録。

初代タイガーマスク

「タイガーマスク」は、猪木さんを凌ぐほどの人気を博し、
地方興行も空前の大入り満員が続くなど、
「新日本プロレス」は黄金時代を迎えたのでした。

「クーデター」で失脚

しかし、1983年8月11日、突然、
「タイガーマスク」から「新日本プロレス」に、
内容証明書付きの契約解除通告書が届けられると、

海外にいた猪木さんは、知らせを聞き、
急遽8月20日に帰国されるのですが、

翌日の21日には、常務取締役の望月和治さんと、
取締役の山本小鉄さんから退任を迫られ、

8月25日には、「新日本プロレス事務所」で行われた緊急役員会で、
猪木さんは社長のポストから降ろされ、

猪木さんとともに「新日本プロレス」を立ち上げ、
様々な企画を生み出した、専務取締役兼営業本部長の、
新間寿さんも「新日本プロレス」を追放されてしまったのでした。

ちなみに、猪木さんと同じく、日本を離れていた、
専務取締役兼営業本部長の新間寿さんは、
24日に帰国し猪木さんと対面されているのですが、

その時の猪木さんについて、

忘れもしない1983年8月24日。まさに寝耳に水だった。
今も耳にこびりつき夢にまで出てくるアントニオ猪木の声。

「新間、もうダメだ」
「俺が両手をついて頼むから新日本プロレスを辞めてくれ」

その瞬間、目の前が真っ暗になった。何とも弱々しい猪木の声。
これが世界最強の男の吐く言葉か。

「な、何で、社長・・・・・・」

すぐには信じられなかった。
何が起こっているのかすらも理解できなかった。

が、猪木の声を聞いてるうちに、
プロレスの情熱がスーッと抜けていった。

と、明かされています。

「新日本プロレス」に復帰

ところで、この猪木さんの失脚劇、

実は、猪木さんが「新日本プロレス」の資金を、
自身の事業である「アントン・ハイセル業」に投資し、
「新日本プロレス」の経営を圧迫していたことから、

そのことを不満に思った所属メンバーや社員が、
起こしたクーデターで、

1983年8月29日には、望月和治さん、大塚博美さん、
山本小鉄さんの3人によるクーデター派の新体制が発足したのですが、

テレビ朝日の重役の、

猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらテレビ朝日は放送を打ち切るよ。

の一言で、たちまち力を失うことになります。

そして、同年11月1日、
「新日プロ事務所」で臨時株主総会が開かれると、
猪木さんは代表取締役社長に復帰されたのでした。

引退発表~平成4年4月4日4時東京ドーム

こうして、自身の人気により復権した猪木さんですが、
最強を誇った、肝心のプロレスの方では、
寄る年波には勝てず、徐々に衰えを見せ始めると、

1988年8月8日には、かつて猪木さんの付き人もしていた、
藤波辰爾さんとの試合で、何とか食らいついてのフルタイムドロー、

「IWGPヘビー級選手権」(1988年8月8日)で熱戦を繰り広げる、
藤波辰爾さん(左)と猪木さん。

1989年2月22日の長州力さんとの試合では、
長州力さんのリキラリアート6連発に完璧なピンフォール負け、

長州力さん(右)に完敗した猪木さん。

1989年4月24日の、ショータ・チョチョシビリ戦では、
初の異種格闘技戦黒星を喫し、

ショータ・チョチョシビリさん(下)に、
KO負けを喫した猪木さん。

1993年には、報道陣を前に「近い将来の引退」を表明。

それでも、猪木さんは、その後も、
「ファイナルカウントダウン」と銘打ち、
強豪と激闘を繰り広げられたのですが、

ついに、1998年(平成4年)には、
4月4日午後4時に、東京ドームで引退試合を行うことを発表。

ちなみに、この4が4つ並んだ日時は、

猪木がプロレスラーとして死を迎える

と報道されて、大きな話題となり、
引退試合のチケットは前売りで完売。

当日、東京ドームには、
7万人ものプロレスファンが押し寄せています。

引退試合の対戦相手は?

そして、迎えた平成4年4月4日午後4時、
「炎のファイター~オーケストラ・バージョン」が流れ、

猪木さんの引退試合の対戦相手を決める、
「THE FINAL INOKI TOURNAMENT」の準決勝が2試合、

続いて、
「新日本VsNWOジャパン・タッグマッチ」
「6人タッグマッチ」
「BEST OF THE SUPER Jr.前哨戦」
2試合
が行われると、

「THE FINAL INOKI TOURNAMENT」決勝戦は、
猪木さんの愛弟子で元柔道家の小川直也さんと、
アメリカのUFCチャンピオン、ドン・フライさんの激闘。
(ドン・フライさんの勝利)

その後、
「IWGPジュニア・ヘビー級選手権試合」
「IWGPタッグ選手権試合」
「IWGPヘビー級選手権試合」

が行われ、終了すると、
残るは、猪木さんの引退試合のみ。

ここで、オーロラビジョンに猪木さんの過去の名場面が流され、
まずは、対戦相手となったドン・フライさんの入場、

続いて、異種格闘技戦で激闘を繰り広げたモハメド・アリさんが、
タキシード姿で入場し、入場ゲート横の聖火台に聖火を灯すと、

「イノキ・ボンバイエ」が流れ、
7万人の観衆のボルテージは最高潮に。

そして、猪木コールの大合唱の中、
猪木さんが白地に赤のフチが入ったガウンを着て、
長いドームの花道を小走りで入場されたのでした。

引退試合の結果は?

こうして、最高の盛り上がりの中、
午後8時26分、ゴングが鳴り、試合が始まると、

猪木さんは、パンチを繰り出すフライさんに押されつつも、
離れては浴びせ蹴りと応戦。そして、グランド戦となると、
さすがに高い技術を持った猪木さんがフライさんを圧倒。

その後、猪木さんは、たまらず立ち上がったフライさんのバックをとり、
スリーパーホールドをかけようとするのですが、

フライさんは、逆にこれを返して、
猪木さんの上に馬乗りし、マウントパンチ。

しかし、すぐさま猪木さんは体を入れ替え、
逆にフライさんに馬乗りマウントパンチ。

そして、なんとか逃れて立とうとした、
フライさんの顔面に蹴りを入れると、

その後、延髄斬り(えんずいぎり)からコブラツイスト、
さらに、そこからグランドコブラ。

たまらず、フライさんは耐え切れずギブアップし、
猪木さんは見事、引退試合を勝利で飾られたのでした。

「アントニオ猪木が北朝鮮で平和の祭典?なぜこだわる?関係良好な理由は?」に続く

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