小林克也の若い頃は?年齢は?モノマネで英語上達?通訳案内士も!

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幼い頃に米駐留軍のラジオを聴いて英語に興味を持って以来、どんどん英語にのめり込んでいった、小林克也(こばやし かつや)さん。大学在学中には、友達に頼まれて外国人相手のナイトクラブの司会を始めると、その後、洋楽のコンサートの司会やテレビCMのナレーションなどの仕事もするようになり、28歳の時には、ラジオDJデビューされます。


年齢は?出身は?本名は?

小林さんは、1941年3月27日生まれ、
広島県福山市のご出身、

血液型はA型、

学歴は、
広島大学附属福山高等学校
⇒慶應義塾大学経済学部中退

ちなみに、
小林克也は本名です。

幼少時代に米駐留軍のラジオで英語好きに

小林さんは、子どもの頃から、
日本語のほか、英語、韓国語、中国語、ロシア語など、
様々な言語が飛び交うラジオを聴くことが好きだったそうで、

なかでも、米駐留軍によるFEN(現・AFN)を聴いて英語に興味を持つと、
小学校6年の終わりごろから、親戚の知り合いに英語を習い始め、
英語の発音を徹底的に教えてもらいます。

(この頃、日本は戦争に負けて貧しかったため、日本人にとって、
 肉やチョコレートのあるアメリカはリッチな国だったそうで、
 幼い小林さんにとっても、英語はそんな憧れの国の音だったそうです)

そして、中学時代には、ちょうど、
アメリカではラジオの第2期黄金期を迎えていて、
エルヴィス・プレスリーを始めとするロックが、
若者の間で大ブームとなっていたのですが、

小林さんも漏れなくロックに夢中になり、お気に入りの曲を聴くため、
学校をズル休みするほど、英語のラジオばかり聴いていたそうで、

これだけ毎日英語を聴いていたことから、
学校での外国人が話すリスニング授業では、

小林さんだけは、周りが全然聴き取れない中、
ほぼ全部聴き取れるほど、ヒアリング力が身についていたのでした。

(ただ、学校の授業の英語はおもしろくなく、
 全く興味を持てなかったそうです。)

エルヴィス・プレスリーのモノマネで英語力アップ?

そんな小林さんは、英語のラジオを流していると、
親が勉強をしていると思ってくれるため、

受験勉強期間中は、受験勉強がしたくなくて、
英語のラジオばかり聴いていたそうですが、

公立高校の受験には失敗するものの、
私立の広島大学附属福山高等学校にはトップで合格。

そして、高校でも、掃除の時間に、
エルヴィス・プレスリーのモノマネをするなど、
英語&ロック熱が冷めずにいると、

エルヴィス・プレスリー

ますます英語力はアップし、
英語の成績はいつもトップクラス。

ついに、将来は英語を活かす仕事をしようと思い、
英語以外の科目はどうでもよくなってしまったそうで、

大学受験では、英語以外の成績が思わしくなく、
志望していた東京外国語大学は不合格するも、

一浪の末、英語の配点が多い、
慶應義塾大学経済学部に合格されたのでした。

通訳案内士の資格を取得~観光客ガイドのアルバイト

しかし、大学に入ると、
自分より英語ができる人が大勢いることを目の当たりにし、
井の中の蛙だったと思い知ったそうで、

少しでも就職にプラスになればと、「通訳案内士(通訳ガイド)」
(運輸省の通訳案内業国家試験)の試験を受けると、
35倍の倍率を突破し、見事一発合格。

その後、「通訳案内士」の資格を活かして、
外国人相手の観光ガイドのアルバイトを始められると、

地元広島から上京して1年半しか経っていなかったため、
何を聞かれても東京のことは分からず、

ひたすら「I don’t know.(わからない)」を繰り返し、
挙げ句に、神社と中華飯店を間違えてしまって、
観光客を激怒させてしまい、クビになりかけたそうですが、

次の仕事では、FENを聴き続けた時に得た音楽の知識で、
場の空気を盛り上げたところ、偶然にもお客さんが
アメリカのラジオ局の副社長だったこともあり、
大いに気に入られて事なきを得たのだそうです。

ナイトクラブで司会

その後は、順調にアルバイトをこなしていたのですが、
高収入だったこともあり、逆にアルバイトに精を出しすぎ、
大学3年生になる時には留年。

さすがに、一浪してなんとか入った大学での留年に、
(加えて、当時は就職難)小林さんは「お先真っ暗」
と落ち込み、友達に相談すると、

「起業しよう」という話になり、
観光ツアーの企画、貸しレコード店、喫茶店など、
思いつく限りのビジネスを始めようとするも、
ことごとく失敗。

しかし、そんな中、英語を話せる人を探していた友達から頼まれて、
外国人相手のナイトクラブの司会を始めると、

当初は、しゃべる仕事に興味はなかったものの、高収入だったことや、
有名な外国人アーティストが時々出演していて音楽が聴けたこと、
また、ほかにいい仕事がなかったことから、

やがて、大学を中退し、
司会で生計をたてるようになったそうで、

その後、人づてに紹介されて、洋楽のコンサートの司会や、
テレビCMのナレーションなどもされるようになります。

(ちなみに、当時、家庭教師のバイトが月3000~5000円だったのに対し、
 ナイトクラブの司会は、1回30~40秒ほど、英語と日本語で、
 ショーの紹介をするだけで、2000円という高額なバイトだったそうです)

洋楽紹介のラジオ番組でDJデビュー

そして、28歳のときには、
仕事仲間にデモテープを作ることを勧められ、

米軍放送の音楽番組など、小林さんが子どもの頃から、
面白いと思ってきたラジオ番組のイメージを元に、
デモテープを作ると、

それを聴いたディレクターが、
「これまでの日本の番組にはない雰囲気だ」と気に入り、
洋楽を主に紹介するラジオ番組「バブリング・ポップ」のDJに抜擢。

すると、小林さんは、その英語力と素晴らしい声質で、
一躍ラジオ界の寵児となられたのでした。

「小林克也の妻子は?ビルド?ラジオで伊武雅刀とスネークマンショー!YMOとも?」に続く

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