伯爵の令嬢でありながら、15歳の時、「第一期東宝ニューフェイス」に応募されると、4000人の応募者の中から見事合格し、芸能界入りされた、久我美子(くが よしこ)さん。1950年、映画「また逢う日まで」で岡田英次さんと演じられた窓ごしのキスシーンは、映画史上最高のシーンとして現在も語り継がれています。


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年齢は?出身は?身長は?本名は?

久我さんは、1931年1月21日生まれ、
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)のご出身、

身長153センチ、

本名は、
小野田 美子(おのだ はるこ)、
旧姓は久我(こが)、

学歴は、
学習院女子中等科中退です。

ちなみに、義姉には、
三ツ矢歌子さんがいらっしゃいます。

実家が華族~伯爵令嬢から映画女優へ

久我さんは、お父さんが貴族院の議員も務めた公爵で、
村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む、
公家華族の中でも指折りの名家「久我(こが)」家に生まれると、

映画や芝居が好きだったお母さんの影響で、
幼い頃から芸能に親しんで育ち、
12歳の時には女優を志すようになります。

(憧れの女優は原節子さんだったそうです)

というのも、実は、当時、久我家は、
世間知らずのおじいさんとお父さんが高利貸しにお金を借り、
慣れない事業に手を出して失敗し、経済的に追い詰められており、

そんな窮状を救おうと、
幼い久我さんは決意していたのでした。

そんな折、戦後、華族制度の廃止が決まり、
家庭の経済状況がさらに悪化してしまうのを危惧した久我さんは、

1946年、女子学習院中等科3年生の時、家計を支えるため、
「第一期東宝ニューフェイス」の募集に、家族に内緒で応募されると、
見事、4000人の中から選ばれ合格。

ただ、おじいさん達はというと、
伯爵家の令嬢である久我さんが映画界に入ることには猛反対で、
ようやく、久我(こが)姓を名乗らないことを条件に、
了承を取り付けた久我さんは、

戸籍をお母さんのお兄さんの養子先の池田家に一旦移し、
「池田美子(いけだ はるこ)」の名前で東宝に入社したのでした。

(ちなみに、翌年の1947年に「華族世襲財産法」が廃止となって、
 久我(こが)姓に戻されると、芸名も(読み方は変えられたものの)、
 東宝側の希望で、久我美子(くが よしこ)となっています。)

若い頃は?「また逢う日まで」のキスシーンが話題に!

こうして久我さんは、翌年の1947年、
オムニバス映画「四つの恋の物語」「初恋」で、
いきなり、ヒロインとして女優デビューされると、


「初恋」より。久我さんと池部良さん。

(ただ、この頃は、東宝争議の影響で俳優が大勢退社しており、
 新人を起用するしなかったという事情があったようで、相手役の池部良さんは、
 まだ子どもだった久我さん(17歳)を見てがっかりしたといわれています)

その後も、

1947年「春のめざめ」
1948年「醉いどれ天使」
1949年「ジャコ万と鉄」
1950年「また逢う日まで」
     「雪夫人絵図」


「醉いどれ天使」より。志村喬さんと久我さん。

と、立て続けに映画に出演され、

特に、1950年の映画「また逢う日まで」での、
岡田英次さんとの窓ごしのキスシーンは、

当時の映画界ではタブーとされていた、
キスシーンのクローズアップが大きな話題となり、

日本映画史上において、
最高のシーンとして現在も語り継がれています。


「また逢う日まで」より。

「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を結成

以降、久我さんは、
順調に映画出演を重ねられるのですが、

一方で、大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)による、
専属の俳優や監督を他社の作品には出さないという「5社協定」には反発。

岸恵子さん、有馬稲子さんとともに、
「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を結成されると、
独立系映画製作プロダクションとして活動され、

1955年「胸より胸に」
1959年「人間の条件」
1961年「もず」
1962年「お吟さま」
1964年「乾いた花」


「胸より胸に」より。有馬稲子さんと久我さん。

などの映画を制作されていたのですが・・・

1965年「怪談」で、3億5千万円という、
巨額な製作費がかかったうえ、興行的に失敗すると、

莫大な負債を抱え、
「にんじんくらぶ」は倒産(解散)しています。

ちなみに、この「怪談」は、日本ではヒットしなかったものの、
「カンヌ国際映画祭」では審査員特別賞を受賞し、
「アカデミー賞」では外国語映画賞にノミネートされています。

夫は平田昭彦!子供は?

そんな久我さんの、
気になるプライベートですが、

久我さんは、1961年、
俳優の平田昭彦さんと結婚されています。


平田昭彦さんと久我さん♪

お二人は、映画「大坂城物語」での共演で知り合われると、
撮影中には、ロケ地にあった宿泊先前の喫茶店で、
毎朝デートを重ねられるほどのラブラブだったそうで、

(平田さんの人柄の良さのためか、スタッフ、共演者を含めて、
 誰ひとり、週刊誌にゴシップとして漏らさなかったそうで、
 半年もの間、週刊誌にはバレなかったそうです。)

その後、平田さんの猛烈なアプローチの末に結婚に至ると、
結婚後は、お子さんには恵まれなかったものの、
とても幸せな結婚生活を送られ、おしどり夫婦と呼ばれたそうです♪

亡き夫の意思を継ぎ映画「ゴジラ」に出演

ところで、ご主人の平田さんは、1954年、
特撮怪獣映画の第1作「ゴジラ」に芹沢博士役で出演されているほか、


「ゴジラ」で芹沢博士に扮する平田さん。

テレビドラマ「ウルトラマン」の岩本博士役と、
特撮モノに数多く出演されているのですが、


「ウルトラマン」で岩本博士に扮する平田さん。

1983年、「ゴジラ」を映画に復活させる活動を
積極的に行っていた最中、「十二指腸潰瘍」が発覚し手術を受けられると、

その後、テレビドラマに出演されるまでに回復され、
翌年の1984年12月公開予定の映画「ゴジラ」では、
林田信役を演じる予定になっていたのですが、

同年7月15日、突然、呼吸不全に陥ると、
7月25日、「癌性リンパ管症」により、56歳という若さで他界。

残された久我さんは、そんな亡きご主人の意思を継ぎ、1989年には、
映画「ゴジラvsビオランテ」に女性官房長官役で出演されています。


「ゴジラvsビオランテ」で官房長官役に扮する久我さん。

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現在は?

さて、いかがでしたでしょうか?

久我さんは、2000年に映画「川の流れのように」
に出演されて以来、女優業から遠ざかられており、

2004年、義姉(ご主人のお姉さん)である、
女優の三ツ矢歌子さんが亡くなった際、久々に、
公の場に姿を現されたものの、その後は消息不明。

90歳間近のご高齢ということで無理もありませんが、
お元気で過ごされていると良いですね。

https://www.youtube.com/watch?v=IHzD-7WEAqc

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