1960年、21歳の時に、「文学座附属演劇研究所」に研究生として入所されると、
1964年、25歳の時には、まだ生活もままならない状態で、「文学座附属演劇研究所」の同期の女優、悠木千帆(現・樹木希林)さんと結婚された、岸田森(きしだ しん)さん。そんな岸田さんについて調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

岸田さんは、1939年10月17日生まれ、
東京府東京市杉並区(現・東京都杉並区)のご出身、

身長169センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
箱根町立湯本小学校
⇒九段小学校(転校)
⇒麹町中学校
⇒海城高等学校
⇒法政大学英文科中退

特技は、
剣道(3段)、

趣味は、
蝶の収集・採集、スコッチ・ウイスキー収集、油絵、シナリオ、ゴルフ、野球、ジャズ鑑賞で、特にレコードは相当なコレクションがあったそうで、一番愛したアルバムは、チャールズ・ミンガスのPithecanthropus Erectus」だったそうです。

ちなみに、岸田森は本名で、
(別名義は朱川 審(あけかわ しん))

伯父には、劇作家の岸田國士さん、従姉妹には、女優の岸田今日子さんと童話作家の岸田衿子さんがおられます。

また、お父さんは、1956~1957年、火星の土地分譲で名をはせた、「日本宇宙旅行会(現・日本宇宙飛行協会)」の協会事務局長だったそうです。

若い頃は?悠木千帆(樹木希林)と結婚

岸田さんは、1958年、19歳(大学2年生)の時、俳優を志して大学を中退し、1960年、21歳の時に、「文学座附属演劇研究所」に研究生として入団されると、

研究発表会のような内輪の演劇ばかりで、年間収入が2~3万円という暮らしが続く中、1964年、25歳の時には、「文学座附属演劇研究所」の同期だった、女優の悠木千帆(現・樹木希林)さんと結婚。


仲睦まじい様子の岸田さんと悠木千帆(現・樹木希林)さん♪

岸田さんが、まだ、テレビドラマ「氷点」(1966年放送)に、出演が決まったばかりの無名に近い俳優だったのに対し、悠木さんは、すでに、テレビドラマ「七人の孫」(1964年放送)で、お茶の間の人気女優だったのですが、

1966年には、二人そろって「文学座」を退団し、劇団「六月劇場」を結成されるなど、公私共にラブラブで、周囲もうらやむ、おしどり夫婦として、たびたび雑誌などでも取り上げられたのでした。

昼ドラ「愛しの太陽」「伊都子」で主婦を中心に人気

そして、1966年には、岸田さんも、テレビドラマ「氷点」が放送されたことで知名度がアップし(岸田さんはメインキャストの辻口徹役)、


「氷点」より。内藤洋子さんと岸田さん。

同年には、「愛しの太陽」「伊都子」と、立て続けにお昼のメロドラマの主人公に起用されると、

当初は、「六月劇場」を結成したばかりで、意欲的に演劇活動を始めていた時期だったことから、

最初、昼の時間のドラマにでるのには抵抗を感じました。

と、語っておられたのですが、

脚本もかなりぼくの意見を取り入れて書いてもらえるし、スタッフの人たちも気を入れてくださるので役作りには抵抗ないし。

と、最終的には満足され、一躍、主婦層を中心に人気を博したのでした。

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「怪奇大作戦」「呪いの館 血を吸う眼」で怪奇俳優へ

以降、岸田さんは、活動の場をテレビドラマや映画に移され、1968年には、「怪奇大作戦」で、主人公・牧史郎(まき しろう)役を務められると、


「怪奇大作戦」より

当時、東京都港区瑞聖寺の境内にあった岸田さんの自宅を撮影に使用するなど、岸田さん自身も意欲的に制作に参加。

岸田さんは後に、

この作品への出演が自身の芝居の一大転機になった。

と、語っておられるのですが、そのとおり、孤独でクールでありながら、回を追うごとに人間味を増す演技を披露され、たちまち、視聴者の心を掴まれます。

そして、1971年には、映画「呪いの館 血を吸う眼」で吸血鬼役を怪演。


「呪いの館 血を吸う眼」より

実は、当初、プロデューサーの田中文雄さんは、吸血鬼なのだからと、日本人離れした俳優を選ぶ予定だったそうですが、

監督の山本迪夫さんの中では、ドラキュラも岸田さんも、植物質なイメージだったことから、強く岸田さんを推薦され、岸田さんの起用となったそうで、

実際、無言でたたずんでいるだけで不気味で、そのうえ、ギラギラした眼光が恐怖を与える岸田さんの演技は、「和製ドラキュラ」との高い評価を得、この映画の評価に貢献されたのでした。

「岸田森の死因は?葬儀は?後妻は三田和代!ウルトラマンほかドラマ映画は?」に続く

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