東京大学在学中の1965年、「第2回日本アマチュアシャンソンコンクール」で見事優勝し、翌年の1966年には「誰も誰も知らない」で歌手デビューを果たされた、加藤登紀子(かとう ときこ)さん。そんな加藤さんのルーツをご紹介しましょう。


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年齢は?出身は?本名は?

加藤さんは、1943年12月27日生まれ、
旧満州国ハルビン市(現・中国東北部)のご出身(京都育ち)、

血液型はO型、

学歴は、
東京都立駒場高等学校
⇒東京大学文学部西洋史学科卒業

ちなみに、加藤登紀子は本名で、
愛称は、おときさん、

加藤さんは、毎年10月1日に、
「日本酒の日コンサート」を行うほどの日本酒好きだそうです。

両親は?

まずは、加藤さんのお話の前に、
今では想像できない時代背景のため、加藤さんのご両親のお話から。

加藤さんのお父さんは、旧満州国ハルビン市(現・中国東北部)にあった、
「日露協会学校」を卒業後、「南満州鉄道株式会社」に勤務されていたのですが、

「日露協会学校」とは、1920年、日本の外務省が所管する、
 旧満州国ハルビン市に創設された学校で、第2次世界大戦における、
 ユダヤ人への「命のビザ」を発行した杉原千畝さんらを輩出しています)

その一方で、「ハルビン交響楽団」の事務局長を務められるなど、音楽が好きで、
復員後は「日本マーキュリーレコード」に入社。

天才少女歌手と言われた美空ひばりさんのオーディションにも立会い、
その歌のうまさに驚かされたそうです。

(ちなみに、「日本マーキュリーレコード」は、少女歌手という前例がなかったため、
 美空さんのデビューを保留していたそうですが、そうこうしている間に、
 美空さんは「コロンビアレコード」からデビューしてしまったそうです)

また、お母さんは、終戦直後、ソ連軍がハルビンで略奪行為を繰り返していて、
日本人が逃げまどう中、一人、ソ連軍の司令本部に乗り込み、

こんな乱暴を働いているのはおかしい。

と、訴えるなど、とても正義感の強い人だったそうで、

母はどんなときでもきちんと相手と向き合う強さを教えてくれました。

と、後に加藤さんはお母さんについて語っておられます。


ハルビンの詩がきこえる
(著者の加藤淑子さんは加藤登紀子さんの母)

幼少時代

そんな両親の間に、加藤さんはハルビンで誕生するのですが、
前述のとおり、終戦後は、ソ連軍が略奪行為を繰り返していたことから、

歩かないと死ぬことになる。

と、お母さんに言われて、2歳の時には、
兵役で消息不明のお父さんを残したまま、命からがら日本へ帰国。

すると、間もなくお父さんも無事復員して「日本マーキュリーレコード」に入社され、
お母さんも洋裁店で働いて家計を支えられたそうです。

(ちなみに、1957年、加藤さん中学2年生の時には、お父さんが、
 突然、ロシア料理店「スンガリー」をオープンされたそうで、
 デザイナーになって自分の洋裁店を持つことが夢だったお母さんは、
 そのロシア料理店を手伝うため、自分の夢をあきらめられたそうです。)


ロシア料理店「スンガリー」(現在は加藤さんが引き継がれています)

「60年安保反対」デモ~女子学生運動家を目指し東大へ

一方、加藤さんはというと、お母さんから、

自分のやりたい道を選びなさい

と、言われていたことから、

1960年6月15日、高校2年生の時には、
同級生たちと国会の前で「60年安保反対」のデモに参加。

ただ、そのうち、

高校生は帰れ、特に女子は残るな。

という司令が出たため、家に帰られると、

夜のニュースで、東京大学の女子学生(学生運動家)、
樺美智子(かんば みちこ)さんが、デモの際、
警官隊と衝突して亡くなったことを知ったそうで、

樺さんの後を継ごう

と、この事件を一つのきっかけに、
東大を目指すことを決意。

先生からは「東大なんてとても無理」と言われるも、
悔しさから逆に発奮して猛勉強したそうで、

入試本番では、「5問中2問を捨てて3問に集中」という作戦を立て、
見事、現役合格を果たされたのでした。

東大に入学するも・・・

こうして、1962年、晴れて、東大に入学された加藤さんですが、
入学早々に行われた、女子だけのオリエンテーションでは、

結婚できるのは20%、
一般企業の採用はほとんどなく、研究職か公務員しかない。

と、脅されるほど、女子が少なかったそうで、

実際、加藤さんが入学した文学部も、
学生50人のうち、女子はたったの7人。

にもかかわらず、クラスの男子学生はというと、
他の女子大生と合コンをやっていたそうで、

それを知った加藤さんは、

次にやるときは私たちを誘いなさい

と、他の女子学生とともに、男子学生をつるし上げたそうですが、

次の合コン時には誘われたものの、今度は、他の女子学生に裏切られ、
参加したのは加藤さん一人だけだったそうで、

あの時は怖かったなあ

と、加藤さんは、女子の怖さを思い知ったと、
振り返っておられました♪

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歌手デビュー~「誰も誰も知らない」「赤い風船」

ところで、東京大学の女子学生運動家・樺美智子さんの死により、
樺さんの後を継ごうと、東京大学に入られた加藤さんですが、

実質、学生運動はほとんどされておらず、
「演技研究会」に入会して演劇活動に熱中するほか、
フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフに傾倒し、
大学3年生の頃には、ほとんど講義に出なくなってしまいます。

そして、そんな折、歌手を目指していたこともあったお父さんに、
シャンソンコンクールに出ることを勧められ、

1965年、「第2回日本アマチュアシャンソンコンクール」
に出場すると、見事優勝。

翌年の1966年5月には、ファーストシングル「誰も誰も知らない」で、
現役東大生として鮮烈な歌手デビューを果たし、


「誰も誰も知らない」

同年8月にリリースしたセカンドシングル「赤い風船」では、
いきなり「第8回日本レコード大賞新人賞」を受賞されたのでした。


「赤い風船」

「加藤登紀子の若い頃は学生運動?夫と獄中結婚し出産!馴れ初めは?」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=IZybaoGVEFA

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