坂上二郎の若い頃はコント55号で野球拳?萩本欽一との馴れ初めは?

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1966年、萩本欽一さんとお笑いコンビ「コント55号」を結成し、一躍ブレイクされた、坂上二郎(さかがみ じろう)さん。そんな坂上さんと萩本さんの馴れ初めを調べてみました。

年齢は?出身は?身長は?本名は?

坂上さんは、1934年4月16日生まれ、
鹿児島県鹿児島市のご出身(幼少期は満州)、

身長160センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
鹿児島市立清水中学校卒業、

ちなみに、坂上二郎は本名で、
旧芸名は「安藤ロール」、
愛称は「二郎さん」です。

若い頃は「安藤ロール」

坂上さんは中学卒業後、
鹿児島市内の百貨店「丸屋呉服店」に勤務していたのですが、

1953年、「のど自慢素人演芸会」の鹿児島県大会に出場すると、
見事優勝したことから、歌手を目指し上京。

ただ、上京後は、さまざまな職業を経て、
歌手の青木光一さんの付き人や島倉千代子さんの専属司会になり、

歌謡ショー等で漫才や司会をするのですが、
なかなか歌手デビューのチャンスには恵まれず、
やむなく漫才師に転向することに。

そして、漫才コンビ「獅子てんや・瀬戸わんや」の門下となり、
(ロックンロールが流行していたからという安易な理由から)
「安藤ロール」の芸名で「内藤ロック・安藤ロール」を結成するのですが、

こちらも芽が出ず、ほどなくして解散。

その後は、「安藤ロール」の名のままピンで活動を続けると、
所属事務所の先輩の紹介で、ストリップ劇場「浅草フランス座」のコメディアンとなり、
やがて、「浅草フランス座」でリーダー格となっていたのでした。
(この時、坂上さんはすでに28歳)


「安藤ロール」時代の坂上さん。

萩本欽一との出会い

そんな1959年のある日、「浅草フランス座」と同じ建物にあった、
「浅草東洋劇場」で力をつけた、若き萩本欽一さん(このとき21歳)が、
主役待遇で「浅草フランス座」にやってくるのですが、

萩本さんは、何が何でも成功してやると、
野心に満ちあふれていたことから、

ロートルの売れない漫才師に何が分かるか。

と坂上さんを見下し、

坂上さんも坂上さんで、

この世界では俺が先輩、キャリアもある。
あんな若造に何がわかるか。

と、お互い、第一印象は最悪。

また、格的には「浅草東洋劇場」よりも「浅草フランス座」の方が上だったそうで、
にもかかわらず、格下の「浅草東洋劇場」からやってきた若造が主役待遇なことに、
ほかの「浅草フランス座」の芸人たちもおもしろくなく、

萩本さんと同じ舞台に立つと、やたら無茶振りをしたり、
萩本さんのボケを無視したりと、萩本さんのことを格好のイジメの標的にします。

そして、そのイジメが一番ひどかったのが、坂上さんで、
二人が初めて、踊り子のショータイムの幕間コントで組んだ際には、

坂上さんは、わざと台本通りに行わず、萩本さんを慌てさせ、
舞台をメチャクチャにしたそうで、これには萩本さんも、
悔しくて悔しくて、楽屋で号泣。

ただ、次の共演では、萩本さんも負けじと、
坂上さんの無茶ぶりに、決して引き下がらずしつこく返したそうで、
坂上さんも「この野郎!」と返すと、観客にはバカ受けしたのでした。

仲直りせぬまま別離

そして、そんなことが2年も続いたそうですが、
二人は、最後の最後まで打ち解けることはなく、

萩本さんが、座長をやりたいからと、「浅草フランス座」を去る最後の日も、
萩本さんは坂上さんに挨拶もせず出て行こうとすると、

実は、萩本さんの実力を認めつつも、
ズルズルと来てしまっていた坂上さんは、

座長だって?すげえな。

と、萩本さんに声を掛け、

しまいには、

今度機会があったらコンビでも組まないか?
俺漫才やっていたから、間とかもわかるしさ。

と、誘われるのですが、

萩本さんは、面食らいつつも、
散々意地悪をしておいて、何を今さらと、

お断りします

と即答。

こうして、二人は仲直りせぬまま
バラバラとなってしまったのでした。

運命の電話(萩本の視点)

その後、萩本さんは、座長公演が成功し、
テレビからも声がかかるようになるのですが、

ある生CMの撮影で連続20回以上ものNGを出してしまったことから、
落胆し、「餓死自殺」を図ろうと自室にこもっていると、

先輩芸人の小田憲二さんが訪ねてきて、事情を察し、

ちょうど、俺は欽ちゃんを誘いに来たんだ。
熱海での営業があるから一緒に行かないか?

と萩本さんを説得。

こうして、萩本さんは、小田さんと、
熱海の「つるやホテル」に営業に行かれると、

日増しに評判が上がっていったことから、
気を良くした萩本さんは、2ヶ月後、東京に戻り、

事務所の浅井氏(後の「浅井企画」の社長)に、
熱海でウケたネタをまた舞台でやりたい、と連絡し、
7歳年上の芸人、田畑俊二さんに声をかけるのですが、

田畑さんはというと、新たに組んだ「ギャグ・メッセンジャーズ」
というコンビでテレビに出始め、ぼちぼち人気が出てきたところだったため、
遠まわしに断られてしまったのでした。

こうして、失意のうちに、萩本さんは、久々の浅草の下宿に戻られたのですが、
それから、一時間もしないうちに、運命の電話が鳴ります。

そして、

欽ちゃん、電話だよ!

と下から呼ばれ、

萩本さんは、すぐに階段を降りて、黒電話の受話器を取ると、

あ、欽ちゃんか。
オレ、坂上……いや、安藤ロールだけどね。

と意外な声。

なんと、電話の主は、「浅草フランス座」で意地悪をされ続け、
ただただ毎日、ステージ上でコント(ケンカ)をして、
それ以外は口もきかなかった、坂上(当時は安藤ロール)さんだったのです。

運命の電話(坂上の視点)

一方、坂上さんはというと、萩本さんが去った後は、
再び歌手を目指すも、全く芽が出ず、

芸能界で生き残るには、もう、お笑いの道しかないと思いつつも、
チャンスも無ければ、当時流行っていたトリオを組む相手もおらず、
日々、キャバレーの営業等で食いつないでいたそうで、
(それまで家計を助けていた奥さんも妊娠して働けず)

しまいには、ピエロの格好をして、
外でキャバレーの呼び込みをするまでに困窮。

この時、坂上さんはすでに32歳となっており、子供もじき生まれるなかで、
このまま、叶うかどうかも分からない夢を追いかけて、
家族を犠牲にすることは出来ないと、

ついには、芸能界を諦め、
田舎に帰ってトラックの運ちゃんでもやろうと思われます。

ただ、そう割り切った途端、
急に「浅草フランス座」時代が懐かしくなり、

ひょっとすると、オレの人生の中で、
一番輝いていた時期かもしれない。

と、自分のやりたいように、全てを出し切っていた、
萩本さんとの「ケンカ」コントの日々を思い出したそうで、

田舎に帰る前に、もう一度、萩本さんと会って、
思い出話でもしたいという気持ちになり、

知り合いから電話番号を聞き出し、
萩本さんに電話をかけられたのでした。

「コント55号」結成~大ブレイク

そして、

ね、マージャンでもやんない?

坂上さんが、電話口で名乗った次の一言は、
こんな言葉だったのですが、

なぜか萩本さんも、

いいよ、そっち行く。

と、すんなり、坂上さんの誘いに乗られます。

運命の電話。

坂上さんが、魔が差してかけた、
萩本さんへの初めての電話が、

ちょうど、萩本さんが失意のうちに、
久々の浅草の下宿に戻ったタイミングだったのです。

こうして、坂上さんは、訪ねてきた萩本さんから、
熱海で思いついたコントの話を聞くやいなや、

そのコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのでは。

と、提案すると、
萩本さんも納得してコンビを結成することに。
(ただ、過去のトラウマからか、1回だけの舞台契約)

そして、1966年10月、「浅草松竹演芸場」の上席前座として、
萩本さんが熱海で思いついたネタ「机」を演じたのですが、反応が今一つだったため、
3日目には役を入れ替えるとウケたそうで、

5日目には正式に香盤表に載る事となり、この時、支配人から、
コンビ名を「コント55号」と名付けられると、

(王貞治・現ソフトバンク球団会長の本塁打新記録55本(1964年)
 にあやかったほか諸説あります)

瞬く間に二人の噂は広がり、翌年の1967年2月14日には、
日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演。

以降、「浅草松竹演芸場」の高座で新ネタを降ろしては、
「日劇(日本劇場)」の舞台に練り上げるといったパターンで人気を博し、

やがて、テレビ演芸番組「大正テレビ寄席」への出演依頼が舞い込むと、
激しく動き回る2人のコントに、お客さんは大ウケ。

(当時のテレビ業界では、テレビカメラに収まるように、マイク1本の周囲
 2メートル四方を離れないことが常識だったのですが、「コント55号」の人気に、
 テレビ局のディレクターも例外を認められたのでした。)

このことがきっかけとなり、1968年には、
バラエティー番組「お昼のゴールデンショー」
に出演すると、たちまち人気爆発となったのでした。

以降、「コント55号」は、

1968~1970年「コント55号の世界は笑う」
     1968年「チータ55号」
1969~1970年「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」
     1973年「コント55号のなんでそうなるの?」
1969~1975年「みんなで出よう55号決定版!→55号決定版!」
     1969年「ウォー!コント55号!!」
     1971年「コント55号!!笑ってたまるか!?」

など、数多くの冠レギュラー番組を持ち、一世を風靡。

坂上さんの、

「飛びます、飛びます」
「コタローね」

萩本さんの、

「なんで(ど~して)そうなるの!」

などのギャグが大ヒットするほか、

「コント55号の裏番組をぶっ飛ばせ」の中のコーナーの「野球拳」では、
テレビの中で、アイドル歌手やグラビアタレントが1枚1枚服を脱いでいく様子が、
若い世代を中心に熱狂の渦に巻き込んだのでした。

「坂上二郎がユニコーンと歌?学校の先生でも!出演ドラマ映画は?」に続く

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