1955年、「初恋カナリヤ娘」で映画デビューされると、その優雅な物腰や甘いマスクで人気を博し、以降、数多くの映画やテレビドラマに出演された、岡田眞澄(おかだ ますみ)さん。そんな岡田さんの知られざるブレイクまでの道のりについて調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?ハーフ?

岡田さんは、1935年9月22日生まれ、
フランス・ニースのご出身(生まれ)、

身長184センチ、

血液型はO型、

学歴は、
大正幼稚園(台北市)
⇒台北健成国民学校
⇒氷川小学校卒業
⇒セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ中退

趣味は、
ガーデニング、水泳、

特技は、
合気道、スキー 、

ちなみに、岡田眞澄は本名で、

お父さんは、画家の岡田穀さん、
お母さんは、デンマーク人翻訳家インゲボルグ・シーヴァルセンさん、
お兄さんは、タレントのE・H・エリックさん、

姪(エリックさんの娘)にはタレントの岡田美里さん、
叔母には、コペンハーゲンの有名な人魚姫像のモデルのリーネ・エリクセンさん、
がいらっしゃいます。

また、岡田さんの愛称は、「ファンファン」ですが、
当時のフランスの二枚目スター、ジェラール・フィリップの愛称、
「ファンファン」にあやかって名付けられたそうです。

(ジェラール・フィリップは、映画「花咲ける騎士道(Fanfan la Tulipe)」
 で「ファンファン」役を演じて人気を博しました)

幼少期は、フランス~台湾~日本

岡田さんのお母さん、インゲボルグさんは、20歳の時、
デンマーク・コペンハーゲンからフランス・パリにやってきて、
カフェでバイトをしながら、バレリーナを目指されていたのですが、

そのカフェでは、画家を目指す若きアーティストたちが集まって、
芸術や人生について語り合っていたそうで、

そこで、日本人画家の岡田穀さんと出会われると、
二人はたちまち恋に落ち、結婚。

二人はニースに移り住まれると、長男のE.H.エリック(本名・泰美)さん、
そして、次男の岡田眞澄さんが誕生します。

ただ、その後、第二次世界大戦が始まると、
一家は親戚を頼って、手荷物一つで台湾に逃れ、移り住まれるのですが、

台湾では、西洋人であるインゲボルグさんは、
スパイ扱いされ、憲兵隊に外出を禁じられる生活。

それでも、インゲボルグさんは、いつも、岡田さんら息子たちに、

エレガントに生きなさい。

と、言い聞かせたそうで、

岡田さんは、そんなお母さんの教育方針から、
どんな時も優雅さを忘れない子どもに育ったのでした。

フランス語、日本語、英語のトリリンガル

そして、ようやく戦争が終わり、
岡田さん一家は日本へ帰国するのですが、

お父さんの穀さんはというと、画家としてはパッとしなかったそうで、
かといって、戦後で焼け野原となった東京ではなかなか仕事がなく、
一家は、東京の街を転々とする厳しい生活。

ただ、そのうち、インゲボルグさんが、
(現在の「日本青年館」にあった)在日米軍の施設で、翻訳家として、
住み込みで働いて、一家の生活を支えられるようになったそうで、

(ちなみに、家族の同居は許されていなかったそうで、
 お母さんを慕う岡田さんは、施設に忍び込んで生活されていたとか)

そんなインゲボルグさんの、

これからは英語ぐらい出来なければいけません。

との教育方針のもと、岡田さん兄弟は、2人そろって、
日本の公立小学校からインターナショナルスクールに編入し、
そこで、英語を覚えられたそうです。

(もともと、岡田さん一家は、フランス語で会話をしていたそうですが、
 岡田さんは、日本に帰国する3ヵ月の船旅の間に日本語を覚えたそうです)

「日活ニューフェイス」「第6期東宝ニューフェイス」~二枚目スターとして

その後、お兄さんのE・H・エリックさんが、舞台芸人のトニー谷さんにスカウトされ、
1953年に「日劇ミュージックホール」でデビューされると、


「日劇ミュージックホール」時代の岡田さん。

それをきっかけに、岡田さんも谷さんの勧めでバレエのレッスンを受けたそうで、
その後は、お兄さんとともに、「ミュージックホール」の座長格だった、
泉和助さんに師事して修行に励まれます。

そして、「日活ニューフェイス」「第6期東宝ニューフェイス」に、
見事合格すると、「東宝演劇研究所」に入所するのですが、
ほどなくして、日活に移籍すると、

1955年には、「初恋カナリヤ娘」で映画デビュー。


「初恋カナリヤ娘」より。岡田さんと丹下キヨ子さん。

翌年の1956年には、
「てんてん娘」でテレビドラマデビューも果たされ、

以降、スマートな二枚目俳優として、
映画、テレビドラマに数多く出演されたのでした。

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モデル、司会、バラエティで活躍~「ファンファン大佐」

また、岡田さんは、1957年には、日本初の、
男性専門のモデルクラブ「ソサエティ・オブ・スタイル(SOS)」を、
菅原文太さんら総勢8名で結成されるなど、モデルとしても活躍されると、

1959年には日活を退社し、

~1965年「にんじんくらぶ」
1965~1974年「劇団欅」

で、精力的に演劇活動を行われ、「劇団欅」を退団後は、
ミュージカルほか、バラエティ番組の司会者などでも幅広く活躍。

特に、とんねるずのみなさんのおかげです」のコーナー、
「仮面ノリダー」では、敵役「ファンファン大佐」をコミカルに演じ、
幅広い年齢層からの人気を獲得されています。

(出演が決まった際には、1980年代にCMに出演した「マドラス」に、
 小道具のブーツを特注で製作してもらい、愛用していたそうです)

ちなみに、1972年、大映ドラマ「シークレット部隊」の第1回放送では、
萩本欽一さんとゲスト共演されているのですが、

(このことがきっかけかは分かりませんでしたが)1979年から1994年まで、
萩本さんの冠番組「欽ちゃんの仮装大賞」でレギュラー審査員も務められています。

「岡田眞澄の女性遍歴が凄い!ママコと期限付結婚?瑳峨三智子とは借金のため?」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=xi4y2r3km2M

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