小林幸子の若い頃は美空ひばりのモノマネ?島倉千代子?勝新?都はるみ?

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1964年、9歳の小学4年生の時に「ウソツキ鴎」で演歌歌手デビューすると、いきなり20万枚を売り上げるヒットを飛ばし、「美空ひばりの再来」と一躍脚光を浴びた、小林幸子(こばやし さちこ)さん。翌年の1965年には、「座頭市二段斬り」で子役として映画デビューも果たされるのですが・・・

年齢は?出身は?身長は?本名は?昔の芸名は?

小林さんは、1953年12月5日生まれ、
新潟県新潟市(現・新潟市中央区)のご出身、

身長165センチ、

血液型はA型、

趣味は、
陶芸 、スキューバダイビング、

特技は、
日舞、三味線、和太鼓、殺陣、

ちなみに、小林幸子は本名で、愛称はさっちゃんですが、
結婚後は、林幸子(はやし さちこ)となっています。
(実家は「小林精肉店」を営んでいたそうです)

また、芸名は、
小林幸子 ⇒ 小林さち子 ⇒ 岡真由美 ⇒ 小林幸子
と、幾度も改名されています。

幼少期から天才少女

小林さんは、幼い頃から、家の隣のお寺のお経や、
3軒先にあった小さな映画館の劇中歌の「渡り鳥シリーズ」ほか、
チャンバラ、ポップスなど、様々な音楽が流れる環境で育たれたうえ、


「渡り鳥いつまた帰る」より。宍戸錠さん(左)と小林旭さん(右)

小林さんのお父さんが、子どもの頃、
歌手の東海林太郎さんに憧れて、歌手を夢見ていたことから、

まだ幼い小林さんを抱いてお風呂に入っては、
浪曲などを歌って聴かせられていたそうで、

そんなある時、いつものように、
お父さんにだっこされながら、湯船につかっていた小林さんは、

お父さんから、

歌ってみろ

と、言われ、そのまま、こぶしを入れて歌うと、

お父さんが、だっこしていた小林さんを湯船に落としそうになるほど、
小林さんの子供離れした歌声にびっくりされたそうです。

歌謡番組でスカウトされてデビュー

その後、小林さんは、お父さんの影響もあってか、
1963年、9歳の小学4年生の時に、

歌謡バラエティ番組「歌まね読本」に出演され、
美空ひばりさん、畠山みどりさん、松山恵子さんの、
3人のモノマネを披露すると、

他の大人の出場者を圧倒する、歌唱力とモノマネで、
あれよあれよと5人勝ち抜いて、見事グランドチャンピオンに。


当時の小林さんとお父さん。

そして、審査委員長だった古賀政男さんから、小林さんの両親に、

僕のところで娘さんを歌手にしてみませんか。

と、スカウトの声がかかります。

ただ、歌手になることに大賛成のお父さんに対し、
お母さんは大反対で、二人は大喧嘩。

ただ、当の本人の小林さんが、

歌手になりたい

と言われたことで、

翌年の1964年に上京し、
「ウソツキ鴎」(古賀さん作曲)で演歌歌手デビューされると、
なんと、いきなり、20万枚を売り上げるヒット。


「ウソツキ鴎」

こうして、小林さんは、

「美空ひばりの再来」
「天才少女歌手」

と、たちまち脚光を浴びられたのでした。

ちなみに、小林さんは、同時期、
渡辺プロダクションからもスカウトされていたそうで、

もし渡辺プロに入ってたら、
私はポップス歌手だったかもしれませんね。

と、おっしゃっていました。

小学生で一人暮らし!中澤さんって?

そんな小林さんは、スカウトされて上京後、
まだ、小学生だったにもかかわらず、
四谷三丁目のアパートで一人暮らしをされているのですが、

古賀さんのプロダクションの女性マネージャーである、
中澤さん(当時22歳)という方が、

仕事場までの送り迎えやご飯の準備など、
いろいろと身の回りの世話をしてくれたそうで、
その中澤さんとは現在でも交流があるとのことでした。


デビュー当時の中澤さん(22歳)と小林さん(10歳)。

都はるみは同期、島倉千代子は芸能界の母

また、たった10歳で、大人の中で仕事をされていた小林さんは、
同期の都はるみさん(高校1年生)と仲が良く、
ある日、都さんと楽屋で騒いでいたそうですが、

これに激怒した先輩歌手に、
二人を注意してくるように命じられた島倉千代子さんが、
仕方なく、二人のもとへやってきて、

楽屋というところはお仕事をする場所でもあるし、
ステージに立つ前の神聖な場所なのだから騒いだりするところじゃないのよ。

と、注意されたそうで、

この時、芸能界に入って初めて叱られた小林は、
それ以来、島倉さんのことを「母さん」と呼んで慕い、

島倉さんもまた、小林さんを「幸(さち)」と呼ぶなど、
まるで本当の母娘のような関係になったそうです。

ちなみに、この関係は、島倉さんが亡くなる2013年まで、
50年もの長きに渡って続いたそうで、

小林さんは、島倉さんが亡くなった後も、お揃いの指輪を大切にされているほか、
島倉さんの携帯番号を消すことができずに、今も残していることを明かされていました。

「座頭市二段斬り」で子役デビューも・・・

さて、デビュー曲がいきなりヒットし、たちまち脚光を浴びた小林さんは、
翌年の1965年には、勝新太郎さん主演の映画「座頭市二段斬り」で、
映画(子役)デビューも果たされ、
(勝さんには「チビ」と言ってかわいがられたそうです)


「座頭市二段斬り」より。小林さん(左)と勝新太郎さん(右)。

その後も、映画では、

1966年「酔いどれ博士」
1967年「ある殺し屋」


「ある殺し屋」より。小林さん(左)と野川由美子さん。

テレビドラマでは、

1965年「くらやみ五段」
     「これが青春だ」

1967年「特別機動捜査隊」
1968年「青い太陽」


「くらやみ五段」より。千葉真一さん(左)と小林さん(右)。

と、子役として活躍されるのですが、

肝心の歌手の方はというと、デビュー曲以来、鳴かず飛ばずで、
1968年の自身主演のテレビドラマ「青い太陽」の、
主題歌(エンディング曲)と挿入歌を歌唱されるもサッパリ。


「青い太陽」

実は、小林さんは、美空ひばりさんのお母さんから、
(小林さんと美空さんは同じレコード会社でした)

ひばりを模倣している

と、レコード会社にクレームをつけられ、
完全に干されてしまっていたのでした。

(当時、興行の世界を牛耳っていた「山口組三代目組長」にかわいがられていた、
 美空さんを敵に回すことは、致命的なことだったそうです)

そして、追い打ちをかけるように、1964年6月には「新潟地震」が起き、
その影響で、実家の精肉店の経営が苦しくなり、1968年頃に閉店すると、

なんと、当時、まだ15歳だった小林さんを頼って、
家族が上京してきたそうで、

小林さんは、そんな家族を養うために、昼間は、各地の興行を行いつつ、
地元のレコード店、ラジオ局、有線放送局などへ一人で営業周り。

夜は、(年齢を20歳と偽って)飲み屋、キャバレー、ナイトクラブなどで、
深夜遅くまで、泥酔客に絡まれながら営業周りを続け、家族を養われたのでした。

「小林幸子の低迷期はグラビアも!おもいで酒!紅白で美川憲一と!」に続く

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