1955年、16歳の時、ファーストシングル「この世の花」でレコードデビューされると、200万枚を売り上げる大ヒットを記録し、たちまち人気を博した、島倉千代子(しまくら ちよこ)さん。そんな島倉さんのブレイクまでの道のりを調べてみました。

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出身は?本名は?

島倉さんは、1938年3月30日生まれ、
東京都品川区北品川のご出身、

血液型はA型、

学歴は、
日本音楽高等学校卒業、

ちなみに、「島倉千代子」は本名で、
愛称はお千代さんです。

幼少期に左腕を大怪我

島倉さんは、1945年、7歳の時、戦争中に疎開した長野で、
井戸から手押し車で水の入った瓶を運んでいる途中に転倒すると、

水の入った瓶が割れて、その中に左腕を突っ込んでしまい、
左手首からひじまでの血管を4本も切断する大怪我。

お母さんが、

女の子だから(腕を)残して欲しい

と医師に懇願したことで、腕の切断は免れるのですが、
47針も縫い、腕の感覚はなくなり、動かすこともできなくなってしまいます。

(後に不自由ながらも動かすことができるようになったそうです)

そして、そのせいで、島倉さんは、ものが持てなくなり、
ほかの子どもたちと同じことができずに、イジメられるようになったそうで、

家から外に出ず、笑わず、人とも話さず、学校の体操の時間も、
校庭の隅で膝を抱えてしゃがんでいるような、暗い子どもになってしまいます。

美空ひばりの大ファン

ただ、そんな島倉さんを歌で心を通わせようと、
お母さんが、お風呂の中でよく歌を歌ってくれたそうで、
そのことがきっかけで島倉さんは歌が好きになっていくと、

歌が上手で歌手に憧れるも小児麻痺で歌手を断念した、
お姉さん(敏子さん)の夢を叶えようと、

島倉さん自身が歌手になる決意をされ、敏子さんから声楽を学び、
近所のアマチュアバンド「若旦那楽団」に入団。

当初は、不自由な左手に負担のない、アコーディオンを担当されていたのですが、
島倉さんもまた、歌が上手だったため、やがて、ヴォーカルにも起用されたそうで、

地元の品川神社で催されたのど自慢大会には毎回姉妹で出場し、
美空ひばりさんの大ファンだった島倉さんは、
美空さんの歌ばかり歌われたのだそうです。

(最初にコロムビアのコンクールを受けた際にも、美空さんを真似て、
 美空さんの曲「リンゴ追分(りんごおいわけ)」を歌ったところ、
 審査員に「ひばりは二人いらないよ」と言われて落とされたそうです)

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「この世の花」「逢いたいなァあの人に」「東京だョおっ母さん」が大ヒット

そして、詳しい経緯は不明ですが、島倉さんは、1949年3月、12歳の時、
テイチクレコードから、童謡「お山のお猿」を発売されると、


「お山のお猿」

(この「お山のお猿」は、レコードレーベルの歌手名表記が、
「島倉千代子」ではなく、「戸倉千代子」と誤植されてしまっており、
 そのため、島倉さんのデビュー作とは考えられていないようです)

1953年、15歳の時には、「日本音楽高等学校」へ入学し、

この頃から、歌謡コンクールにも積極的に参加されるようになると、
翌年の1954年「第5回コロムビア全国歌謡コンクール」では見事優勝。

そして、1955年3月、16歳の時、本名の「島倉千代子」で、
ファーストシングル「この世の花」でレコードデビューされると、
半年後には200万枚を売り上げる大ヒットを記録し、
たちまち、アイドル的な人気者に。


「この世の花」

その後も島倉さんは、同年に発売された、
「りんどう峠」が130万枚、


「りんどう峠」

1956年、18歳の時には、
「逢いたいなァ あの人に」が120万枚、


「逢いたいなァ あの人に」

1957年、19歳の時には、
「東京だョおっ母さん」が150万枚を売り上げる大ヒットを飛ばし、


「東京だョおっ母さん」

「東京だョおっ母さん」は、同名タイトルで映画化もされて、
島倉さんが主演を務められるほか、この年の「紅白歌合戦」にも初出場。
(歌唱曲は「逢いたいなァ あの人に」 )

1958年、20歳の時には、「からたち日記」が、
またまた130万枚の大ヒットを記録するなど、


「からたち日記」

島倉さんは、あれよあれよと日本を代表する演歌歌手になられたのでした。
(この年には、一戸建ての家も購入されています)

「島倉千代子の元夫は阪神の藤本勝巳!離婚理由は?子どもは?」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=VBUYmbORRBw

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