おっとりとした上品な立ち振舞から、良妻賢母や優しいおばあちゃんのイメージが強い、八千草薫(やちぐさ かおる)さんですが、若い頃は、「宝塚歌劇団」で可憐な容姿で人気を集められました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

八千草さんは、1931年1月6日生まれ、
大阪府大阪市天王寺のご出身、

身長154センチ、

星座はやぎ座、

血液型はO型、

学歴は、
聖泉高等女学校(現・プール学院中学校・高等学校)
⇒宝塚音楽学校

趣味は、ご主人が存命中、山歩きが好きで、一緒にされていたそうですが、ご主人が腰を痛めてからはされていないそうです。

ちなみに、本名は谷口瞳(たにぐち ひとみ)(旧姓:松田)で、
愛称は、本名にちなんで、ヒトミ(ちゃん)です。

幼少期は体が弱く内気な子ども

八千草さんは、幼い頃にお父さんが他界され、お母さんに女手一つで育てられるのですが、体が弱く、すぐ病気になってしまい、週に1、2日は学校を休むことはザラ。

小学校時代は3ヶ月間も学校を休み、静養のため、空気のきれいな兵庫県の六甲にある、おじいさんとおばあさんのもとに預けられたこともあったそうで、そのため、とても内気な子どもだったそうです。

「宝塚音楽学校」に一発合格

そして、八千草さんが10歳の時には戦争が始まり、空襲で自宅が焼けたほか、学校では勉強よりも勤労奉仕という時代が長らく続いたのですが、

高校在学中、ふと、新聞で、「宝塚歌劇団・音楽学校」の生徒募集の広告に目が留まると、

宝塚って・・・うわ~!

と、感激されたそうで、

ひと目見た瞬間から、応募してみたくなり、お母さんに相談されると、お母さんはびっくり仰天して反対。(というよりも、お母さんは、入れる訳がないと考えていたそうです)

それでも、八千草さんは、思い切って受けられると、見事、一発で合格。反対していたお母さんも、

せっかく受かったんだから、がんばってみたら

と、応援してくれたそうで、八千草さんは、晴れて、「宝塚音楽学校」に入学されたのでした。

ちなみに、八千草さんは、小学校の頃、おばあちゃんが「宝塚」の専門誌を買っていたことから、そこに写っている春日野八千代さんを見て、

こんな美しい人がいるのか

と感銘を受けていたそうで、

戦争が終わっても暗い時代でね。キラキラとした華やかなものにあこがれたんです。

と、憧れだけで「宝塚」を受け、合格してしまったことから、

「宝塚音楽学校」に入られた当初は、人前で見せるためには、ダンスや歌などの練習をしなければならないことに気づき、「私、間違えたかな」と思われたそうです(笑)(八千草さんは、ダンスや歌はずぶの素人だったそうです)

「宝塚歌劇団」では可憐な娘役でブレイク

そして、1947年には、戦後初の新人として「宝塚歌劇団」に入団されると、当初は、「分福茶釜」のタヌキなど、コミカルな役を演じることが多かった八千草さんですが、

1952年、「源氏物語」の初演で、紫の上の少女時代である、若紫を演じられると、その可憐で無垢な姿が光り、たちまちブレイク。


「源氏物語」で若紫に扮する八千草さん。

以降も、憧れだった、当時、男役トップスターの春日野八千代さんの相手役を務められたほか、美貌の清純派娘役を多く演じられ、「宝塚歌劇団」の一時代を築かれたのでした。

ちなみに、八千草さんは、1957年に「宝塚歌劇団」を退団されているのですが、後に、宝塚での日々を、

宝塚に入って強くなったと思います。体も、心も。クタクタになりながら本当に頑張った。いろいろなものを宝塚から頂いたと思っています。

と、語っておられました。

出演作品(舞台、テレビドラマ、映画)

また、八千草さんは、「宝塚」在籍中の1952年には、劇団内に新たに設立された「映画専科」にも所属し、東宝映画などの外部出演もこなされると、「お嫁さんにしたい有名人」で、たびたび1位に輝かれるなど、映画女優としても人気を博し、

「宝塚」退団後、女優の道に進まれると、おっとりとした良妻賢母役がハマり役となります。

その一方で、1977年には、テレビドラマ「岸辺のアルバム」で、不倫に走る主婦役を演じられ、新境地を開拓されたのでした。


「岸辺のアルバム」より。竹脇無我さんと八千草さん。

それでは、ここで、八千草さんのそのほかの出演作品もご紹介しましょう。

舞台では、

1951年「文福茶釜」(宝塚時代)
1952年「源氏物語」(宝塚時代)
1954年「みにくい家鴨の子」(宝塚時代)
1960年「がしんたれ 青春篇」
1961年「放浪記」

1968年「霧の中」
1973年「二十四の瞳」
1990年「土佐堀川」
   不明「細雪」

   不明「女系家族」
   不明「華岡青洲の妻」
2003年「黄昏」
2009年「晩秋」
2017年「これはあなたのもの 1943-ウクライナ」

テレビドラマでは、

1960年「愛妻物語」
1961年「三四郎」
1963年 NHK大河ドラマ「花の生涯」
1964年「虹の設計」
1966年「銭形平次」
1967年「船場」

1968年「こゝろ」
1969年「ややととさん」
1970年「張込み」
1971年「おりょう」
1972年「赤ひげ」
1973年「芙蓉の人」

1975年「俺たちの旅」
1976年「前略おふくろ様II」
1977年「岸辺のアルバム」
1979年「阿修羅のごとく」
1980年「熱い秋」
1981年「茜さんのお弁当」

1982年「季節が変る日」
1983年「土曜ワイド劇場『松本清張の殺人行おくのほそ道』」
1984年「序の舞」
1985年「眠る盃」
1986年「わたしの可愛いひと」
1987年 NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」

1988年「伝言(メッセージ)」
1989年「さよなら李香蘭」
1990年「びいどろで候~長崎屋夢日記」
1991年「世にも奇妙な物語 『40年』」
1992年「逃亡者」
1993年「西遊記」

1994年「橋田壽賀子ドラマ『女の言い分』」
1995年 NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」
1996年「外科医・柊又三郎 第2シリーズ」
1998年「魚心あれば嫁心」
1999年「いちばん綺麗なとき」
2000年「フードファイト」

2001年「長崎ぶらぶら節」
2002年「東京物語」
2004年「愛し君へ」
2005年「星野仙一物語~亡き妻へ贈る言葉~」
2006年「白夜行」
2007年「拝啓、父上様」

2008年「鯨とメダカ」
2009年「ありふれた奇跡」
2010年「やまない雨はない」
2011年「いじわるばあさん3」
2012年「ドラマWスペシャル『學』」
2013年「母。わが子へ」

2014年「宮本武蔵」
2015年「おかしの家」
2016年「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」
2017年「やすらぎの郷」
2018年「執事 西園寺の名推理」
2019年「やすらぎの刻~道」

映画では、

1951年「宝塚夫人」
1952年「昔話ホルモン物語」
1953年「プーサン」
1954年「宮本武蔵 Samurai I: Musashi Miyamoto」
1955年「夏目漱石の三四郎」
1956年「決闘巌流島」

1957年「雪国」
1958年「銭形平次捕物控 八人の花嫁」
1959年「孫悟空」
1960年「ガス人間第一号」
1963年「新・夫婦善哉」
1964年「こんにちは赤ちゃん」
1965年「侍」

1966年「大殺陣 雄呂血」
1967年「古都憂愁 姉いもうと」
1969年「わが恋わが歌」
1971年「朝霧」
1972年「男はつらいよ 寅次郎夢枕」
1974年「田園に死す」

1975年「アサンテ サーナ」
1976年「不毛地帯」
1978年「ブルークリスマス」
1979年「英霊たちの応援歌 最後の早慶戦」
1987年「ハチ公物語」
1989年「226」
1992年「いつか どこかで」

1996年「宮澤賢治 その愛」
1997年「天国までの百マイル」
2001年「サトラレ」
2003年「阿修羅のごとく」
2005年「交渉人 真下正義」
2007年「しゃべれどもしゃべれども」

2008年「しあわせのかおり」
2009年「ガマの油」
2011年「日輪の遺産」
2012年「ツナグ」
2013年「くじけないで」
2015年「ゆずり葉の頃」

ほか、数多くの作品に出演されています。

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「ヤマハ・パッソル」のcm

また、八千草さんは、1977年には、ヤマハのスクーター「パッソル」のCMに起用されているのですが、

実は、前年の1976年には、ホンダのスクーター「ロード・パル」が、当時のイタリアの人気女優、ソフィア・ローレンさんをCMに起用して爆発的なヒットを飛ばしており、

ヤマハが対抗意識から、あえて日本人女優である八千草さんに白羽の矢を立てたそうで、

実際、八千草さんが、CMに出演し、

やさしいから好きです

というキャッチフレーズを押し出すと、「パッソル」も大ヒット。

これをきっかけに、ヤマハとホンダの販売競争(HY戦争)が激化したそうで、当時の八千草さんの人気がいかに凄かったが分かりますね。


「パッソル」のポスターより。

さて、いかがでしたでしょうか。

八千草さんの、

  • 年齢は?出身は?身長は?本名は?
  • 幼少期は体が弱く内気な子ども
  • 「宝塚音楽学校」に一発合格
  • 「宝塚歌劇団」では可憐な娘役でブレイク
  • 出演作品(舞台、テレビドラマ、映画)
  • 「ヤマハ・パッソル」のcm

について、まとめてみました。

八千草さんは、常日頃、

いつも楽しくがモットー
嫌なことがあっても、楽しい気持ちでやればいい

と、語っておられるのですが、

歌やダンスができなかったにもかかわらず、「宝塚音楽学校」に合格され、「宝塚歌劇団」に入団後も、娘役で大ブレイクとなったのは、時代背景もあるとはいえ、八千草さんには、技術的なものを上回る、内面から滲み出る圧倒的な魅力があったのでしょうね。

「八千草薫の性格がきつい?夫の谷口千吉監督とは略奪婚!子どもは?」に続く

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