1980年代、モノマネ芸でブレイクされた、お笑い芸人で俳優の、片岡鶴太郎(かたおか つるたろう)さん。近年はその枠にとどまらず、個展を開くなど画家としての才能も開花されています。


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年齢は?出身は?身長は?本名は?

片岡さんは、1954年12月21日生まれ、
東京都荒川区西日暮里のご出身、

身長163センチ、

血液型はO型、

本名は、
荻野 繁雄 (おぎの しげお)、

学歴は、
東京都立竹台高等学校卒業、

だそうです。

若い頃は?

片岡さんのお父さんは、寄席(よせ)が好きで、
片岡さんが幼い頃から、よく上野や浅草の寄席に、
連れて行ってくれたそうです。

片岡さんは、まだ幼すぎて、
意味はよく分かっていなかったそうですが、

舞台の、賑やかで楽しい雰囲気が、
大好きだったとか。

月に何度も、寄席を見に連れて行ってもらっていたので、
自然と話しを覚え、家や学校で、
見よう見まねでみんなに披露するようになったそうです。

みんながウケてくれると嬉しくなり、
得意になってやっておられたのだとか♪

そんな片岡さんは、小学校5年生の時に、
素人参加型のバラエティ番組「しろうと寄席」に出演され、

動物のモノマネをしたところ、
審査員にとても褒められたそうです。

この頃から芸人に憧れ、
将来は芸人になりたいと思うように、
なっていかれたのでした。

そんな時、片岡さんの出身地、東京都荒川区で、
子ども合唱団が新しくできることになり、
片岡さんはその第一期生になられたそうです。

片岡さんが、合唱団に入りたいと思われた理由は、
将来芸能界に入りたかったため、
それに近い活動をしたいと思われたからでした。

練習のある、土曜日と日曜日は、
はりきって通われていたとか♪

ちなみに、この合唱団は、
「荒川少年少女合唱隊」といい、
現在でも続いているそうです。

お芝居を始める

その後、片岡さんは、
高校に入学すると、演劇部に入部され、
お芝居を始められたそうです。

文化祭では、劇作家の、
別役実(べっちゃく みのる)さんの戯曲に挑戦されるなど、
本格的にお芝居に取り組まれていたのでした。

高校を卒業した後は、
役者になりたいと思う一方で、

何か自分をアピールできる芸を、
早く身につけたいと思っておられたそうです。

弟子入り

そんな思いから、片岡さんは、
1973年、19歳の時に、

芸を身につけるため、
声帯模写の片岡鶴八さんに手紙を書いて、
押しかけたのだとか!

当時、鶴太郎さんが得意としていたモノマネを、
鶴八さんの前で披露したところ、
弟子入りを許可してくれたそうです。

鶴八さんは、一瞬で、
鶴太郎さんの才能を見抜かれたのでしょう。

鶴太郎さんにとって、
モノマネは一人芸であり、

自分でネタを作り、
自分から積極的に仕掛けていけるという、
面白さが魅力なのだとか。

それから、鶴太郎さんは、
鶴八さんのもとで、3年修行に励まれています。

毎日のように寄席や演芸場の芸を見て、
ネタを作っては稽古をつけてもらう、
そんな日々だったそうです。

修行の日々

1976年、22歳頃には、
隼ジュン(後の隼ブラザーズ)のコントグループに所属し、

「岡鶴太郎」(デビュー当初は「片」がなかった!)
の芸名で、トランポリンの地方興行をされていたのだとか。

しかし、このまま終わってしまうことに、
不安を感じられ、

2年後、再び一人芸を磨くために、
四国の道後温泉の演芸場に行かれ、
半年ほど修行をされたそうです。

「どうしたら面白いものが出来るか、
売れるためにはどうしたら良いか」

と、いつも考えておられたそうです。

オレたちひょうきん族!

その後、片岡さんは、程なくして東京に戻られ、
松竹演芸場や東宝名人会のオーディションを、
受けられたそうです。

その結果、寄席に出演することができ、
1977年、片岡さんが23歳の頃くらいから、
テレビの仕事も次第に来るようになったのでした。

そして、1980年、片岡さんが26歳の頃、
バラエティ番組「おれたちひょうきん族」に出演。

当時の人気アイドル、近藤真彦さんのモノマネで、
ついにブレイクされたのでした。

その他、九官鳥の「キューちゃん」、
女優の故・浦辺粂子さんのモノマネ、
コメディアンの故・たこ八郎さんのモノマネで、
人気を博されます。

片岡さんは、この時代のことを、

ビートたけし氏、明石家さんま氏など、
芸達者な方たちの中で揉まれ、育てて頂きました。

と語っておられました。

俳優として

1986年には、テレビドラマ、
「男女七人夏物語」に出演。

これまでのお笑いのイメージを一変させた、
シリアスな演技が高く評価されます。

左から、奥田瑛二さん、片岡さん、明石家さんまさん。

このドラマの成功のおかげで、
片岡さんは、俳優としても、
順調にキャリアを伸ばされることになったのでした。

ボクシング

1987年には、役者としての仕事が充実したこともあり、
プロボクシングに挑戦されたのだとか!

年齢的にも今しかない。

と無性にボクシングがしたくなったのだそうです。

名前が売れ、仕事も入るようになったが、
これで自分が満足し、甘んじてしまったら、
半端な芸人で終わってしまう。

と考えられたのだそうです。

ひょうきん族の頃から知っている人には、
片岡さんがこんなにストイックだったなんて、
意外に感じるかもしれませんね。

画家として

アグレッシブに、様々なことに挑戦されてきた、
片岡さんでしたが、

30代の後半から40代の初めにかけて、
人生の転機となる出来事があったのでした。

10年近く続いた、テレビドラマシリーズ、
「季節はずれの海岸物語」が終わったり、

一緒にやってきた、ボクシングの鬼塚選手が、
世界タイトルを手放して引退したりと、
これまでやってきたことと、
決別するような出来事が続いたのでした。

そんなことから、片岡さんは、
先行きの不安や無常観、
物悲しさを感じられたそうです。

片岡さんは、その頃から、
夕陽や花や月を見て感じる、
言葉にできない世界を表現してみたいと思われ、
墨、硯、筆を買って、絵を描き始めたのだそうです。

現在では、墨絵だけではなく、
陶芸や工芸へも創作活動を広げられ、
個展も開かれているそうです。

横澤彪さんとの出会い

そんな多方面で活躍し続ける片岡さんですが、
実は、ある人物との運命的な出会いがあったようです。

片岡さんが小学5年生の時に出演された、
素人参加型のバラエティ番組「しろうと寄席」に、

後に「オレたちひょうきん族」のプロデューサーとなる、
横澤彪(よこざわ たけし)さんがおられたのだそうです。

左から、横澤さん、ビートたけしさん、明石家さんまさん。

横澤さんは、片岡さんが初出演で、
動物のモノマネをされた時、

荻野君(片岡さんの本名)はオーディションで、
動物の物真似をやったけど、
他にはどういうのができるの。

と、声をかけてくれたのだとか。

そして、一緒に、
ネタをブラッシュアップしてくれたというのです。

当時は、小学生だった片岡さんなので、
横澤さんが将来、大物プロデューサーになるなんて、
もちろん想像していなかったのですが、

テレビ局の人にアドバイスをもらったことが、
とても嬉しかったのだそうです。

その後、片岡さんは、23歳くらいの頃にも、
「お笑い大集合」という番組を立ち上げられた、
横澤さんと再会されています。

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近藤真彦のモノマネでブレイク!

片岡さんは、テレビに出演するようになったものの、
漫才ブームの中で、ピン芸人ということもあり、
なかなかブレイクできなかったそうです。

しかし、1981年、
横澤さんがプロデュースされた、
「オレたちひょうきん族」に出演するようになり、
ブレイクにつながったのだそうです。

片岡さんは、近藤真彦さんのモノマネで、
ブレイクされましたが、
実はこれも、横澤さんの仕掛けによるものだったとか。

収録3日前に、突然、近藤さんの曲である、

「ギンギラギンにさりげなく」をやってくれ。

と言われた片岡さん。

片岡さんは、近藤さんのモノマネなど、
したことがなかったのですが、

急遽、歌を覚えて、ぶっつけ本番で、
ハチャメチャな動きをやってみたところ、
すごくウケたのだとか。

横澤さんのアイディアも素晴らしいですが、
それに応えることのできた、
片岡さんの芸人魂も素晴らしいですね。

さて、60歳を回っても活き活きしている片岡さん。
それは、芸人、俳優、芸術家、ボクシング選手と、
ご自身の思うことに、
突き進んでこられたからかもしれませんね。

これからも、様々な分野での、
ご活躍を期待しています!!

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