1973年、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成し、ファーストシングル「知らず知らずのうちに」でデビューして以来、ミュージシャン、作曲家として活躍している、宇崎竜童(うざき りゅうどう)さん。今回は、そんな宇崎さんの知られざる生い立ちについてご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

宇崎さんは、1946年2月23日生まれ、
京都府京都市伏見区の出身(東京都渋谷区代々木上原育ち)、

身長175センチ、

血液型はO型、

学歴は、
渋谷区立上原小学校、
⇒明治大学付属中野中学校・高等学校
⇒明治大学法学部法律学科卒業

趣味は、
映画観賞、陶芸、ボクシング観戦、キャンプ、バイク、スキューバダイビング、ウィンドサーフィン、ヨット 、

特技は、
ギター、トランペット、

ちなみに、本名は「木村修司」で、芸名「宇崎竜童」は、妻・阿木燿子さんと共に易者につけてもらったそうです。

母親は戦争中の妊娠で中絶する予定だった

宇崎さんは、元海外航路の商船の機関長で船舶関係の会社を経営するお父さんのもと、7人兄姉の末っ子として、疎開先のお母さんの実家がある京都で誕生しているのですが、

(兄2人、姉3人で、一番上のお兄さんとは21歳、一番年の近いお姉さんでも7歳も年が離れているそうです。また、一番下のお兄さんは幼い頃に病気で他界されたそうです)

実は、お母さんは、1945年8月に宇崎さんを妊娠していることが分かると、おばあちゃんと「(戦争中の)こんな時期に産んでいいのか」と2人で悩み抜いた末、中絶することを選択していたのだそうです。

しかし、その翌日(1945年8月15日)に終戦を知らせる玉音放送(天皇の肉声の放送)があり、中絶を思いとどまったそうで、

宇崎さんは、

終戦がもう少し後だったら僕はこの世にいないですね。

と、語っています。

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幼少期・少年期は戦後の復興期にもかかわらず裕福に育っていた

そんな宇崎さんは、生後すぐに、京都市伏見区から東京都渋谷区代々木上原育へ移り住むと、そこで、中学3年生まで過ごしたそうですが、

当時、戦後の復興期でほとんどの日本人が貧困にあえぐ中、お父さんは、日本橋で船具を扱う会社を興して成功していたそうで、運転手付きの自家用車がある豪邸で、外食は当たり前、おやつは舶来(外国から運ばれてきた)のチョコレートやクッキー、そして、毎週、映画に連れて行ってもらうという環境で、何不自由なく育ち、

(小学5年生の時には初めてステーキを食べに銀座の有名店に連れて行ってもらったそうで、150グラムのサーロインステーキを食べたそうです)

お父さんからは、一流の人間になるためにと厳しくしつけられ、食べ物も洋服も一流のものを買い与えられたのだそうです。

(近所の友だちと沼にザリガニを捕りに行った際、その友達から捕ったザリガニを家に帰っておかずにすると聞いた時、ザリガニは鑑賞用に飼うものだと思っていた宇崎さんはとても驚いたそうです)

「宇崎竜童は大学在学中に350曲もの作曲をしていた!」に続く

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