戦国武将、武田信玄の命日4月12日には、
信玄の菩提寺である恵林寺で、毎年供養が行われています。


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武田信玄

武田信玄といえば、
戦国時代、最も天下取りに近い武将でした。

軍略・外交に優れ、包容力に富み、
強大な統率力を持っていたと言われています。

家臣団はいましたが、
豪族のようなもので、自立心が強く、

後世の、

「殿の為には命を捨てる」

的な従順なものではなかったようで、

この家臣団をまとめ、
強力な武田軍団を作り上げたのですから、
相当な人物だったと、想像できます。

人は城、人は石垣、人は掘、情(なさけ)は味方、あだは敵なり

という言葉が、
信玄の人となりを表わしています。

恵林寺

恵林寺は、臨済宗のお寺で、
正式には乾徳山恵林禅寺といいます。

鎌倉時代末期、地頭の二階堂出羽守貞藤が
夢窓国師を自宅に招き、
禅寺としたことに始まるそうです。

恵林寺は、その武田信玄が師事した、
快川国師(紹喜)の入山で、
寺勢を高めたといわれています。

信玄は、恵林寺に寄付をし、
菩提寺と定めています。

信玄の死後3年後、遺言どおり、
後継ぎの武田勝頼が、
父信玄の葬儀を盛大に行いますが・・・

その後、勝頼は、信玄が作り上げた、
強力な武田軍団を扱い切れず、

組織は崩壊、自身も天目山下で自刃し、
甲斐武田氏は滅亡してしまいます。

そして、恵林寺も、同年、
織田信長に焼き討ちにされ、
焼失してしまいました。

ただ、本能寺の変の後に、
徳川家康の手により復建されています。

鎌倉時代の庭は、
国の史跡に指定されており、

甲斐八景と呼ばれる、
甲斐国(山梨県)の8つの情景を詠んだ和歌、
「恵林晩鐘」にも登場します。

快川紹喜(かいせんじょうき)

恵林寺といえば、武田信玄が師事した、
快川和尚が有名です。

戦国時代、快川和尚(おしょう)が、
織田に反する、武田方の武士をかくまったお寺です。

当時、お寺は聖域だったので、

「お寺に逃げこめば、誰も追ってはこない」

というのが常識でしたが、

織田信長はそういうことが一番嫌いでした。
当然のごとく、お寺に火をかけ、
丸ごと焼き討ちにしたのです!

その時の住職が、快川和尚。

織田軍に、かくまっている武士の、
引き渡しを求められましたが、断固拒否。

逃げも隠れもせず、弟子達とともに、
燃え盛る火の中で座禅を組んで、
果てたと言われています。

なんと剛毅なお坊さんでしょう。
土岐源氏の出身と言われているので、
やはり武士の血でしょうか。

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心頭滅却すれば・・・

その時、火の中で座禅を組み、
唱えていた言葉が、

心頭滅却すれば火もまた涼し

このフレーズは有名ですよね。
正式には、

安禅(あんぜん)は必ずしも山水(さんすい)を須(もち)いず、
神頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火自(おのづか)ら涼し

だそうです。

もとは、杜荀鶴(とじゅんかく)という中国の詩人が、
悟空上人のお寺を訪ねたとき作った詩だそうです。

とても暑い夏の日、かげとなる木が全くない、
炎天下にある家の中で門戸を閉ざし、
一枚の破れ衣を着て、
黙々として坐禅をしている悟空上人を見て、

坐禅をする場所は、
なにも静かな山の中や涼しい川辺でなくてもよいのだ。

心が無心でありさえすれば、暑さ寒さも超越し、
自分の心は自然と涼しい境地にあるものかもしれない。

と感心し、詩を作ったそうです。

この精神は、現代でも、
通用するところがありますよね。

時代は何百年も経ち、科学や医学等によって
何もかも変わったように感じてしまいがちですが、

人間は、本質的には、
何も変わっていないのかもしれません。

こういう昔の史跡を訪ねて、
心静かにそういうことを感じるのも、
またいいものですね。

私はなかなか遠くて行けませんが、
お近くの方は、
一度訪れてみてはいかがでしょうか。

心が洗われるかもしれません。

恵林寺
山梨県甲州市塩山小屋敷2280
JR塩山駅からバス13分、バス停:恵林寺→徒歩1分

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