売春宿を経営する実家で少女時代を過ごし、中学1年生にして、接客や客引きなどをしていたという、細木数子(ほそき かずこ)さんですが、その後、弱冠17歳で開業すると、あれよあれよと銀座でクラブを開くまでに登り詰めるのですが、その手口は・・・

「細木数子の生い立ちは?実家は売春宿で中1で客引きをしていた!」

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島倉千代子の借金を自身の内縁の夫(暴力団員)に仲裁させる

民政党院外団(※)の壮士として活動していた父親の愛人の子として生まれるも、その後、銀座でクラブを開くまでに登り詰めた細木さんは、銀座のママとして店を切り盛りする一方で、暴力団組長と愛人関係にもあったそうで、

(※民政党院外団とは、日本の議会政党における議員以外の党員のグループのことを言い、議会および議員に対して圧力を加え、反対党への攻撃、自党要人の警備など、その活動内容は、今でいう暴力団に近いものだったと言われています)

1977年、演歌歌手の島倉千代子さんが、恋人の手形を裏書きしたことで、総額16億円もの負債を抱えた際には、

島倉さんの後見人に自身の内縁の夫(前述の暴力団組長)を立て、暴力団員が大勢取り立てに来る恐ろしい現場を裁かせたそうです。


当時の島倉千代子さん(左)と細木さん。

島倉千代子から10億以上搾取していた?

それ以来、島倉さんは、細木さんのことを、「細木のママ」と呼び、「借金を肩代わりしてくれた恩人」などと慕っていたのですが、

実のところは、もともと借金の額が2億4000万だったものを、細木さんと内縁の組長とがグルになって島倉さんをダマし、16億円もの額に膨らませたとも言われており、

細木さんは、島倉さんの借金を肩代わりした引き換えに、島倉さんと一緒に住んで、巧みに島倉さんを説得し、島倉さんの興行権を握ると、1977年3月には、「ミュージックオフィス」という芸能プロダクションを設立。

必死で働けば1年で返し終えることが出来たかもしれない借金を、3年間、島倉さんを馬車馬のごとく働かせ、莫大な興行収入を得たというのです。

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最後には島倉千代子から2億円もの手切れ金まで得ていた?

一方、島倉さんはというと、暴力団の脅威から守ってくれた細木さんの言いなりで、正確な負債額を把握していなかったそうですが、やがて、さすがに、働いても働いても借金が減らないことに、おかしいと気づき、レコード会社「日本コロムビア」に仲裁してもらい、「日本コロムビア」が細木さんから島倉さんの興行権を取得。

こうして、島倉さんは「日本コロムビア」に移籍されるのですが、細木さんは、ちゃっかり、手切れ金として、1億数千万円(2億円とも)を受け取ったというのです。

ちなみに、島倉さんは、2005年の著書「島倉家―これが私の遺言」の出版記念会見の際には、涙を浮かべながら、

法律が許してくれるならばこの手で刺したい

と、名前こそ出さなかったものの、自分に借金を背負わした相手(細木さん)に対する無念を述べられています。


島倉家―これが私の遺言

「細木数子の六星占術は盗作?墓石霊感商法でも訴えられていた!」に続く

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