栄養失調で身体が弱く、ほとんど学校へ行くことができずに、病院の中で過ごすことが多かったという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、栄養失調になったのは、実家のお寺が貧しかったからだといいます。

「永六輔の生い立ちは?病弱で小学校に通うことが出来なかった!」からの続き

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栄養失調は実家の寺が貧しかったため

お寺(一般的には裕福なイメージ)の息子にもかかわらず、栄養失調でほとんど学校に行くことが出来なかったという永さんですが、

もともと、檀家寺だった永家のお寺は、関東大震災や空襲で檀家がいなくなってしまったそうで、戦後になっても、その檀家の人たちは、東京(特に下町)のもともと家があった所は自分たちの土地ではなかったという理由から、なかなか戻って来こずに、檀家が20~30軒ほどに減ってしまったほか、

(そのため、永家のお寺は、企業で言うところの、中小企業の下請けの零細企業並みだったそうです)

お寺の中のものは、関東大震災でほぼ全部なくなってしまい、残ったものも、その後、空襲で全部焼けてしまったそうで、永さんの世代に残っていたのは地面だけと、とても貧しかったのだそうです。

(檀家寺とは、お寺の墓地に先祖のお墓があり、家族が亡くなったときに葬儀を依頼するお寺のことで、檀家からは、お布施や会費などで経済的に支援されるのですが、永さんのお寺も、法事やお葬式があって、初めて収入が発生したことから、誰かが亡くなったと聞くと、「しめた」という状況だったそうです)

読書と寄席が学校がわりだった

こうして、少年時代はほとんどの時間を病院や施設で過ごしたという永さんですが、学校に行くことができなかった代わりに、読書と寄席(よせ)でいろいろなことを学んだそうで、

(特に落語全集を読むのが好きだったそうです)

6歳の頃から講談や落語を聴くようになったそうですが、家の斜め向こうに、浪曲師の(初代)木村重松さんという人の長屋があり、そこには、ほかにも、常磐津(ときわづ)の師匠などがいたことから、自然と浪曲に親しみ、最初は、浪花節から入り、やがては、講談や落語を聴くようになったそうです。

(ただ、落語は、色物の話なども多く、当時は面白さが分からなかったそうです)

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戦争が始まり学童疎開した信州ではイジメられていた

そんな中、1941年、小学2生(8歳)の時、太平洋戦争が始まると、1944年、小学5年生(11歳)の時には、お母さんと兄弟4人とともに、信州の北佐久郡(現・小諸市)にある、知人のそのまた知人の家に学童疎開することになったそうですが、

(お父さんと一番上のお兄さん(長男)だけ東京に残ったそうです)

戦争中は、周囲の子供たちから、「永」という珍しい苗字のため、「チャンコロ」「シナポコペン」などと言われて、さんざんイジメられたほか、虚弱児だったことや、言葉の壁で、「疎開っぽ」と呼ばれ、つまはじきにされたそうです。

「永六輔は学童疎開したことで病気が治っていた!」に続く

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